これで最後のご奉公と思っていた青森県下北半島の勤務先から突然呼び出され、2012年12月からソウルで勤務することになりました。本誌2011年春季号に「下北からの便り」を寄稿しましたが、今回は6か月という短い期間で韓国やソウルという大都会で身近に感じたことの点描を、いくつかのトピックに絞ってお送りします。
最近は「韓流ドラマ」とかK-POPで日本人に非常に近い存在になった韓国ですが、私はどちらも殆ど知らずにこちらに参りました。ソウルに到着して先ず驚いたのは、高層ビルが林立し、立派な高速道路が国中を網羅していることでした。ソウル市を南北に隔てる漢江の両岸には市内を抜ける広いオリンピック道路が走っています。着任前に読んだ韓国人が書いた少し時代遅れの本には、韓国人のメンタリテイーを表すものとして「踏まれてもついて行きますゲタの雪」(面従腹背)というのがあり、このメンタリテイーには恨(ハン)という激情が裏返しにあるとありました。これは12世紀に元により征服されて以来、北の中国と南の日本からの侵略を受け続けながら、生き延びてきた中で形成されたパトスと言えます。昨年、送電線建設に反対する住民が工事の強行に抗議して焼身自殺をしています。しかし、今の若い人の多くはそのようなことに無縁であり、経済状況は悪化しているが、一流国への道を模索して頑張っていると感じます。
北朝鮮問題
4月中は全世界がこのニュースで持ち切りだったが、ソウル市民の表情は普段と全く変わらず、「毎度のことだけど、今回は少し違うのかな?」程度の反応が殆ど。
邦人企業が情勢分析に追われ、そのうち何社かは出張自粛を実施したのとは対照的だった。 嫌なことは深く考えたくないという人間本能の表れかも知れないが、それにしても外食文化が盛んなソウルの夜はいつもと変わらず賑わい、コンサートやフェステイバルも盛りだくさんだった。
先日、DMZ(非武装地帯)を訪問する機会があり、そこで、1950年から53年の3年間に、第二次大戦で日本に落とされた量の数倍の爆弾が半島中に落とされ、数百万人の命が失われ、全土が焦土と化したという事実を知った。さらに和解を希求し半島の非核化と民族統一に努力している多くの人を知り、心を打たれると同時に、改めて韓国戦争の傷跡の深さを認識することができた。一方、ソウルでは若い人を中心に、統一に冷淡な意見を持つ人が多いことも事実。統一に伴う経済的負担に加え、離散した親戚とは60年以上も音信がなく、全く考え方の異なる人が人口の半分を占めるような社会の将来図を想像できないようだ。
世界でも稀な徴兵制度を維持しており、今のところ徴兵逃れには非常にセンシテイブだが、今後ますます激しくなる経済競争の中で、20代の貴重な2年間を失うことに対して、大きな不満がある。半島問題は韓国の新しい世代に難しい選択を迫りつつあるといえる。
歴史問題
地方を旅行すると、ある時は仏像や農機具のように日本でも見慣れた文物に、ある時は使い方さえ見当のつかないものに出会うが、400年以上前のものはその殆どが修復・再現されたものであることに気づかされる。
16世紀末の豊臣秀吉による2回にわたる侵略により、 文化財は焼失し、産業は壊滅し、人々は離散し、何万人もの人が拉致され、全土が荒廃したと言われている。勿論、李氏朝鮮を支援するために派遣された明兵による略奪・破壊も日本に劣らず酷かった。そして、1853年に黒船が浦賀に来てから20年後に、日本は同じ方法で韓国に軍艦を送り通商を要求。
韓国人は日本人と政治の話を滅多にしないと聞いていたが、最近の日本の政権や政治的リーダーの言動から、良く「日本は右傾化していくのか?」、「軍隊を強化するのか?」「国民は支持しているのか?」という心配げな質問を受けることが多くなった。歴史問題は時間の経過が解決を難しくするが、現代にあってなお被害者側と加害者側では視点が異なることは避けられない。オレが殴ったのは3回だけで10回ではないということが加害者にとっては重要な意味を持つに対して、被害者にとってそんなことは問題ではなく、そうした加害者側の対応にイライラを募らせるのである。それはお互い立場を変えてみることができる想像力があれば直ぐにわかることである。デマゴギーに惑わされず、意見の違いを理解し、草の根の交流を深めて信頼関係を広げていくことが、まともな判断力を養ってくれると思う。 |