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闘わない闘病記 (1)
佐藤 経明


まえがき
  私(1925年4月23日生)は去る2011年11月初めに胃ガンが発見された。かなり大きかったので直ちに手術出来ず、抗がん剤(最初はTSワンの服用、2012年3月下旬からはカンプトテポトシン/通称・イリノテカン/の点滴投与)で癌を小さくしてから手術するという正攻法の戦略方針で経過していた。2012年5月末、癌は小さくはならなかったものの、腫瘍マーカーその他の検査パラメーターが好転したので、主治医はためらいながら「切るとしたら今しかないかも」と言われた。
  むしろ私が「お願いします」と積極的に推進して6月13日、近くの虎の門病院梶ヶ谷分院に入院、15日胃の全摘出手術、その後、2か月の入院生活を経て敗戦記念日の前日、8月14日に退院、今日まで予後生活を送っている。
  主治医は幸い、虎の門病院上部消化器外科・U医長という、このジャンルでは第一線級の専門家に引き受けて頂くという幸運に恵まれた。30分以上も説明して下さるというinformed consent を絵にかいたような扱いで、手術自体は大成功だった。控室にいて摘出した胃を見せてもらった家内と娘の話によると、「胃壁に大きなアワビが張り付いた」ような状態で、そのまま経過したら二三カ月で食物摂取不能に陥ったことは殆ど間違いないから、おそらく手術可能な最後のチャンスであった。しかし、主治医も言われたように「取れるものはすべて取ったが癌細胞は残っている」から、「退院イコール全快」ではない。
  手術日の早朝8時半、手術室総看護師長に腕を取られながら廊下を手術室に歩いて行った時、私は耳の奥で「死刑台への行進」(ベルリオーズ「幻想交響楽」)を聴いているような錯覚があった。この世に「生還」したとはいうものの、残りの時間がかなり限られていることは認めないわけにはいかないから「不安な成功例」と言うべきかもしれない。
  私の場合は比較的恵まれたケースと言えそうだが、すべてが順調であったわけでもない。私なりに様々な教訓を学んだ。それをありのままに記してご参考に供したいと思う。
 
経 緯
1. 私がみぞおちのあたりに何となく違和感を覚えるようになったのは、2011年早春のことではなかったか。だが私は「中年から得た健康」を過信していたため、すぐ受診しなかった。私は旧制中学3年時、結核で瀬戸内のサナトリウムで2年間を過ごした。サナトリウムというところはインテリの吹きだまりで、私は15歳の最年少患者だったから、「先生」には事欠かなかった。代々医家の家に生まれたため仏文志望を諦めたと言う阪大医学部出の若いお医者さん、三宅正隆先生は私の顔を見ると「キミは仏文に行ったらどうですか」と言うのが口癖だったし、東京音楽学校(現・芸大)出の三十代の夫人、武野高子さんは病が重くて殆ど寝たきりだったが、私にレコードをかけさせて曲想のとらえ方などを教えてくれた。今でも面影が浮かぶ「私の大学」の先生たち、戦後まで生き残ったのは三宅先生一人しかいない。
  この間のことは昔、私記「一病息災・プラス・アルファ」に書いている。「プラス・アルファ」というのは、「私の大学」で勉強したことだけでなく、ドイツ語を独学したこともあった。そのため、2年遅れで入った旧制六高では、ドイツ語の授業をさぼってフランス語を勉強していた。のちに私が東西ヨーロッパを歩くのに余り不自由を感じなかったのは、この時のお蔭でもある。サナトリウムでは冬の夜にも窓を少し開けて寝ていたから、空気の清浄さに敏感になり、完全ノンスモーカーで通したことも、この時の余恵である。
  それでも大学を出るまでは疲れやすかったが、漸次、元気になってきたところに「転機」が来た。40代の半ば、ろくなコピー機械もなかった頃とて、カーボン紙を何枚も重ねてタイプライターを強く打っていたら、右手に激痛が走って腱鞘炎になった。知り合いの整形外科に通ってお決まりのマッサージ、電気ショックに(多分、いまでは使わないのだろうが)飲むと眠くなる筋肉緩和剤といった治療を受けたが、一向に良くならない。そんなある時、院長留守番に来た東大病院の若い医師が「これは整形外科では治りません。運動をして自分で直しなさい」と助言してくれた。頂門の一針、「なるほど」とその頃住んでいた石神井公園の池の周りをジョギングし始めたら、全身状態の好転に合わせて薄紙を剥ぐように腱鞘炎も直ってきた。それに力を得て、大学の同僚に誘われるまま、北・南アルプスの山登りも始めた。最初に登ったのが3000メートル近い鹿島槍ヶ岳だったから、殆ど無謀に近かったが、梅雨明け一番の7月18日、山頂から雲ひとつない360度の全景を見渡した時の歓喜は今でも忘れることが出来ない。
  1972年1月、現在の住所(田園都市線・宮崎台)に引っ越してからもジョギングに山登りを併用していたが、25年前、駅前に大きなフィットネスクラブが出来てからは、水泳と水中ウオーキングを中心にしてきた。子供の時に習った古式泳法変形の横泳ぎ300メートル、水中ウオーキング500メートルくらいが定番だった。同年輩の友人たちよりもはるかに元気になって来たので、この「中年から獲得した健康」を過信していたのである。みぞおちの違和感など、泳げば消えると思っていたし、また事実、消えることも多かったのである。
  これまでの経緯の最初の教訓は、次のようになろうか。
 
教訓1 健康を過信するな。少しでも持続的な違和感があったら、信頼できる医師に診てもらうこと。しかし、この「信頼できる医師」と言うのが実はなかなか難しいのだ。

2. 私は虎の門病院の名手の手で手術をうけたのだが、それに至る経過には大きな「波乱」があった。一旦、ある私立医大病院に入院したのだが、入院当日の夕方,強引に「退院」するという、余り例のない経過を経たのである。この間の経緯には「他山の石」として頂ける教訓なしとしないから、次号「その2」で詳しく述べることにしたい。

(さとう・つねあき 横浜市立大学名誉教授 )
 
 

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