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コバケンの追悼コン サート
盛田 常夫

 
 東日本大震災からまだ1年も経って いない。被災者の方々の無念と厳しさを慰めようもなく、遠く離れた地からの支援にも絶対的な限界はあるが、二つの追悼コンサートでハンガリーの友人たちと ミサを執り行った。わずかながらの義援金も集まった。5月のマーチャーシュ教会でモーツアルト「レクイエム」、11月は芸術宮殿(MUPA)でヴェルディ 「レクイエム」と、二つの大きな鎮魂曲を奏でることができた。多くの心あるハンガリーの友人・知人や音楽家が、演奏者としてあるいは聴衆として参加してく れた。集められた義援金額は大きくないが、震災に心を痛めているハンガリーの人々と一緒に、鎮魂の夕べをもてたことが何物にも代えがたい。

 この二つのコンサートの企画に協力してくれたハンガリーの音楽家は、皆、「炎の指揮者コバケン」こと、小林 研一郎が40年近い年月にわたってハンガリーで育んでくれたコバケンファンである。とくに国立合唱団(国立フィルハーモニィ合唱団)は5月のコンサートの 音頭をとってくれ、11月には相思相愛のコバケンと共演してくれた(本誌11号には、5月のコンサートでオケ編成のために奔走した桑名一恵さんのエッセイ が掲載されている)。
  コバケンと国立合唱団との付き合いは長い。私が初めて合唱団のお手伝いをしたのは1996年の日本公演。滞在費が100万円ほど足りないと緊急連絡を受 け、野村證券専務の斉藤惇氏(現、東京証券取引所社長)にお願いして即座の支援をいただいた。この前年、コバケン率いる武蔵野合唱団が国立フィル−国立合 唱団とマーラー「千人の交響曲」を企画したが、屋内スポーツ会館を借りる資金が足りないと相談された。急いでこのコンサートを野村投資銀行ハンガリー (株)創立5周年記念行事に仕立て、本社から300万円を出してもらった。1994年秋に現在の国立フィル支配人のコヴァーチ・ゲーザがMAVオーケスト ラから移籍・着任したばかりで、このコンサートがケーザと私の最初の大仕事になった。こういう経緯から、いつの間にか、コバケンと国立フィルや合唱団との 間を仲立ちする役回りを演じてきた。
 
  コバケンが一番持ち味を発揮できるのが、合唱曲付き交響曲である。ソリスト、合唱団、オーケストラを束ねるのはたいへん難しい。オーケストラ指揮に定評の ある指揮者は多いが、歌も同時に指揮できる指揮者は意外に少ない。歌心がないと、ソリストや合唱団を指導できないからだ。
世界の指揮者の多くは楽器のソリストとして大成した人たちだ。これらの指揮者の音楽観や音感は並みのものではない。現在のハンガリー国立フィルの音楽監督 であるコチシュ・ゾルターンは、言うまでもなくピアニストとして一流の音楽家である。音楽観や楽譜を読み込む力は超一流である。したがって、こういうソリ ストが音楽監督になると、日ごろの練習は非常に厳しくなる。間違った音をだす者はすぐに名指しされる。こういう訓練を重ねれば、確かにオーケストラの技量 が上がる。そして、これはオーケストラにとって貴重な価値である。他方、コチシュのコンサート本番の指揮振りは、褒められたものではない。コチシュにして みれば、日ごろの練習やリハーサルで厳しく注意したことが守られていれば、それで問題ないのだろう。しかし、彼の指揮振りを見る限り、その「完成品」の価 値を理解するのが難しい。それは合唱曲を振る場合も同じである。ピアノは超一流でも、歌がうまいとは限らない。歌心をもつのはもっと難しい。それが指揮振 りにも現れる。
コバケンはよく「ソリストとして高みに達した人々を、僕のような才能のない音楽家が指揮(指示)するのは申し訳ない」という意味のことを話す。一つ一つの 楽器や声楽の道で大成した音楽家には、それぞれ孤高の凄みがある。その高みは持って生まれた才能にも支えられている。とくにヨーロッパの音楽家は世界の トップ水準にある。そういうクラシック音楽の世界で、しかも中欧という音楽のメッカで、音楽家としての認知を受けるのは並大抵のことではない。しかも、世 界の外れからきた日本人がこの地で名声を得るのは奇跡に近い。

指揮者はサッカーチームの監督にもたとえることができる。いかに日本のサッカー水準が上がったとはいえ、ヨー ロッパは世界のプレーヤーが集まる本場。最近は若い日本選手がヨーロッパで活躍しているが、日本人監督がプレミアムリーグやブンデスリガあるいはセリエA の監督になることなど想像もできない。ヨーロッパのオーケストラの音楽監督や常任指揮者になるというのは、まさにこういう世界最高峰のサッカーリーグの監 督になるほどの価値があることなのだ。しかも、国立フィルハーモニィというのは代表監督のようなものだから、リーグ監督のもう一つ上のレベルになる。
サッカーもほかのスポーツと同じように、必ずしも名選手が名監督になっているわけではない。いわば名選手は高みを極めたソリスト。ソリストとしての成功は 必ずしも監督としての成功を保証しない。現レアル・マドリードの監督であるモリーニョは名監督の誉れが高いが、選手としての経歴はほとんどゼロである。し かし、現場を歩きながら、通訳やアシスタントコーチを務めるうちに、自分の理論や方法を身につけた。Jリーグの監督を見ても、選手として頂上を極めた人は ほとんどいない。監督長嶋に失望した人々も、ある意味で納得している。「名選手、名監督ならず」とは長嶋の形容のためにあるような枕詞だが、それはすべて の分野で言えることなのだ。会社で断トツの成績を上げた社員が、優れた社長になれるわけではない。

 コバケンが合唱に強い理由はいくつかある。まず歌うことが好きなことだ。しかも、声が良い。歌謡曲からオペ ラまでレパートリーは広い。美空ひばり「悲しい酒」(ドイツ語台詞付き)に始まり、イタリアオペラまで歌う。この遊び心がないと、歌の指導はできない。楽 器のプロは大概、歌は苦手だ。コチシュが歌ったのを聴いたことはないが、多分、彼の歌唱は聴くに堪えないだろうと思う。
  もう一つは、下積み時代のアルバイトである。指揮者として売れない時期に、コバケンは多くの合唱団を指揮する仕事をこなしてきた。武蔵野合唱団や早稲田グ リークラブなど、多くの合唱指揮の経験がある。それぞれのパートのバランスやニュアンスを調整して、発声から立ち振舞にいたるまで事細かに合唱をまとめ上 げることができるオーケストラ指揮者は稀だ。だが、コバケンには下積み時代の経験が大きな宝になっている。コンサート後の演奏者を称えるショウタイムも、 下積み時代を経験した者でなければ思いつかない。

コバケンの2年振りのハンガリー公演はジュール・フィルハーモニィ音楽監督ベルケシュ・カールマン(武蔵野音 楽大学客員教授兼任)の執念によるもの。ベルケシュがジュールオケの音楽監督に就任した2年前から、数限りないほどの電話を受けた。「何時コバヤシがハン ガリーに来るか」、「必ずジュールで振ってくれ」、と。彼の押しの強さには定評がある。知る人ぞ知るで、本人も7度の結婚を果たしたことを悪びれもせず話 すが、これほどのマメさと押しの強さがなければ、とても7回も結婚式を挙げる気にはならないだろうと感心する。とにかく、押しに押された私は「コバケンが ハンガリーに来たら、必ずジュールへ行くから」と、同じ答えを繰り返すしかなかった。
2011年1月末に小林夫人から「秋にハンガリーへ2週間行けます」という連絡があった。急いでベルケシュに連絡し、ジュールオケの日程を決めてから、他 のオケの予定を打診した。ジュールではベートーヴェンの交響曲とストラヴィンスキー「火の鳥」、ブダペストではMAVオーケストラがヴェルディ「レクイエ ム」をやるということでプログラムがまとまった。ところが、ここからさらに二転三転することになった。
MAVオケに契約書を催促したところ、突然に「ヴェルディはやれない」という。予定されている10月末から11月1日はハンガリーの祝日で、ヴェルディ 「レクイエム」のような大きなコンサートをやれば、経費がかかってもたない。祝祭日のリハーサルには通常の倍の給与を払う必要がある。それをコバケンに伝 えると、「なんとしても国立合唱団と一緒に、ヴェルディをやりたいので、実現して欲しい」という返事。ベルケシュにヴェルディをやらないかと持ちかけた が、やはりお金がかかるから難しいという。そこで、コンチェルトブダペストの支配人に打診した。ちょっと時間はかかったが、定期公演プログラムに入れたい という。ベルケシュに「ヴェルディはコンチェルトブダペストやる」と伝えたところ、急に自分のオケでヴェルディをやりたいと言いだした。これには参った。 かくように、芸術家相手の交渉は簡単ではない。

こういうやり取りをしている間に、大震災が起きた。ヴェルディをどこがやるかが決まっていない段階で、ベルケ シュは早々と11月1日の芸術宮殿会場を抑えてしまい、他のオケが使えないようにしてしまった。なんとも手回しが良い。こうなれば、選択肢は一つしかな い。コンチェルトブダペストには「申し訳ないが、ジュールからは2年越しのラブコールがあり、ジュールオケを優先しない訳にいかない」と事情を話して降り てもらい、ヴェルディ「レクイエム」をジュールオケに回し、当初ジュールオケが予定していたプログラムをMAVオケがやることで関係者の了解をとった。 ヴェルディ「レクイエム」はジュールで10月29日、ブダペストで11月1日と決め、このブダペスト公演を震災追悼コンサートにすることも決めた。追悼コ ンサートの出演者の報酬はなし、節約したお金は義援金に回すことにした。11月1日はハンガリーのお盆の日だから、この日に「レクイエム」で追悼ミサ曲が 演奏されるのは願ってもないことだ。

 こういう経緯はあったが、ジュールオケは全力を挙げて、ヴェルディ「レクイエム」を実現してくれた。ベルケ シュは当代ハンガリーを代表する最高のソリストを編成すると約束し、当方からは国立合唱団を使うことをお願いした。MUPA公演では舞台の上に大スクリー ンを出し、曲の進行に合わせて、数枚の宗教画(「最後の審判」をテーマにしたミケランジェロとジョットのフレスコ画、ボッシュの油絵)がプロジェクターで 映しだされた。さらに曲の始まりと終りに照明を落とし、最後にはローソク電球の灯をともすという工夫まで用意された。ジュールオケの舞台芸術監督の企画で ある。こういうアイディアはやはりヨーロッパでないと思いつかない。しかも、「怒りの日」が始まる曲の展開では、赤い照明に切り替えるという念の入れよう だった。
  しかし、短時間のゲネプロでは最初と最後のシーンの照明を確認しただけで、それ以上のテストはできなかった。だから、宗教画のプロジェクションも照明も本 番一発で行われた。コバケンからは「通してやっていないものを本番でやって大丈夫か。止めた方が良いのでは」と念を押されたが、彼らもプロだから信頼して 任せましょうと了解してもらった。
ジュールのリハーサルで合唱団とソリスト全員が完全に揃ったのは、本番前のゲネプロの時だけ。前日のリハーサルではバスの歌手が欠席、前前日の最初のリ ハーサルにはソリスト全員が参集したが、国立合唱団は地方公演で参加できなかった。しかし、そこは合唱曲に強いマエストロである。このような変則的なリ ハーサル2回で、この難しい曲をまとめ上げた。これにはベルケシュも驚嘆していた。

 ベルケシュはジュール公演の後に、武蔵野音大オケの指揮のために東京へ戻ったが、MUPAの公演終了と同時 に、まだ日本の夜が明けやらぬ時間に電話をくれ、何度も感謝の気持ちを伝えてくれた。「長年の夢が実現した。これは君と僕が協力したからできたのだ」と。 12月の「コバケンと仲間たち」の東北公演で、MUPAの義援金がベルケシュからコバケンへ手渡しされる。

(もりた・つねお)
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.