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人 間万事塞翁が馬
チェンドム・アンドレア

 
   人間万事 塞翁が馬、という諺がありますね。もともと中国の諺ですが、私は日本語を一年間ほど勉強した時にこの諺と出会いました。あの頃、私はまだ簡単な日本語しか わかりませんでしたが、この諺の深みと日本語の美しさが胸に刻まれました。そして「人間万事塞翁が馬」と白いテープに書き、いつも持っている財布に貼って おきました。この一言のおかげなのか、日本のおかげなのか、日本語を勉強したことによって私の人生は変わってしまいました。日本は私のことを救ってくれま した。最初の日本人の友達と出会った時から現在まで、日本に対する気持ちは変わらず、心を温める光のようです。
 2009年第17回日本語スピーチコ ンテストの「感謝」というスピーチの際にも話したことですが、私は日本に大変感謝しています。「私には何もできない」という気持ちを忘れさせてくれた日本 に対して、借りを作ってしまったような気がします。それをどうやって返すことができるだろうと考えていたら、「日本の専門家になるために、一生懸命がん ばって日本のことをもっと勉強しないといけない」、という結論になりました。
  私は日本人と最初に出会った時は二十歳でした。運命のような出会い、不思議な友情、自分を変えてくれる優しさのおかげで、辛い時にも、負けそうな時があっ ても、諦めず、「いくらかかっても、この使命を引き受ける。」と決意しました。
  ですから、2009年にエルテ大学に進学し、日本学を勉強することになりました。それから二年が一瞬のように飛び去り、少しずつ日本学の世界にも入ってき ています。
  2010年に、先生と友達、私も含めて、皆が驚いたことに、岩手県の「高野長英夢物語大賞」というエッセイ・コンクールの大賞を獲得しました。「チェンゲ の死」という短編小説はなぜ好評を得たか、今でも分かりません。私はエルテ大学に入学する前、故郷のデブレツェン市にある大学のメディア学科に通い、新聞 記者になりたいと思っていました。大学で記者として活動していましたが、物書きとしては自分に不満を持っていました。「ハンガリー語だとなんだか感じてい ることが書けないなぁ…」と思っていました。こう悩んでいたころ日本語を勉強し始めました。日本語では書きたいスタイルで小説を書けましたが、それはやっ ぱり日本語でもハンガリー語でもない小説になってしまいました。ところが、夢物語大賞は本当に夢のように実現しました。ハンガリー人である私の気持ちや考 えは、母語よりも日本語の方がもっと表現できると気付かせてくれる大変良い経験でした。
  そして、同年の秋、大学の前期が新たに始まったころ、また運命のような出会いが起きました。マヤ(ハンガリー日本学生友好協会、 www.ilovejapan.hu )の一員になったのです。マヤは2009年に創立された組織であり、日本人とハンガリー人の交流を応援したいという思いを持ち、多くのイベントを主催して います。マヤは私もしたいことをすでに頑張っていたので、参加することにしました。私は現在、記者としての勉強をホームページの編集者として役立てていま す。
  2011年の春の大震災はひどく悲しいことで、世界のそれぞれのところと同じようにハンガリー人の多くも「私にできることがあれば、日本のために全力を尽 くしたい。」と思い、みんなが一つになって遠くから日本を応援しました。そのとき、マヤはリスト音楽院の日本人留学生から提案を受け、一緒に義援金募金の ためのコンサートを主催しました。みんなまだまだ未熟で、小さいことしかできない学生ですが、いずれ日本人とハンガリー人の交流のための活動ができるよう 成長したいと思っています。
  本当は、「ハンガリー人として生まれた私は、日本とどのような関係があるのだろうか。私一人に何ができるのだろうか」とよく悩んでいます。しかし、あの 時、心の底からひどく悲しく、たとえ無力でも役に立ちたいと強く思いました。そして、リスト音楽院の学生と、素晴らしいピアニストであるヘゲデーシュ・エ ンドレとドラフィー・カールマンの心のこもった演奏を聴きながら、「このメロディーが日本の被災地に届きますように」と祈りしました。
  読者の皆様は、この記事をお読みになって、「しかし、なぜ人間万事塞翁が馬という題名なんだろう」と思っていらっしゃるでしょう。私は、特別な理由もな く、自分でも理解できないことですが、人に対する不安を子供のころから持っています。それは、おそらく皆が持っている不安ですが、私はその不安をはっきり と感じてしまい、この人生で悪いことばかり起きると思っていました。でもある日、「もういい。だれも助けてくれないなら、一人でやるしかない。しなくちゃ いけないことをやるんだよ」と決心できました。こうして、最初は一人で歩み始めた道が、だんだん一人ではなくなりました。子供の頃、単に日本語の響きに魅 了された私がずっとするべきだと感じていたことは、「日本語を分かりたい。日本語を話したい。」というシンプルな気持ちだけでした。
  でも今、日本に対する気持ちは、それだけではありません。ですから、何が起こるか誰にもわからない、と日本語 を話せるようになってから、ようやく心から感じるようになりました。
(チェンドム・アンドレア)
 
 

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