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僕がゴルフを始めた 理由(わけ)
小林 研一郎

 
 指揮者は体力勝負でもある。その意 味でスポーツ的要素がかなりの部分を占める。だから、健康で体が良く動いてくれないと、指揮の仕事を存分に成し遂げることはできない。1回のコンサート指 揮で実に2万回も手が動く。足腰が丈夫でないと、上半身を自在に動かすことはできない。だから、体の要である腰を鍛えて、しっかりした体の土台を造ること が、指揮者にとっても基本なのである。
 
 ところで、僕はなまっていた体を、 復活させるという以上に、鍛えることに成功した。それもある偶然の出来事から。それがゴルフとの出会いである。
 
 それまで、僕にとってゴルフは運動 性に乏しい、どちらかというとスポーツに属さないゲームにすぎなかった。野球などの激しい運動性のあるゲームに魅せられていた僕にとって、ゴルフは魅力を 感じさせるものではなかった。
 
 そういう僕を熱心にゴルフへ誘って くださる方がいた。当時のJALのアムステルダム支店長である。とはいえ、その誘いにたんに乗ったというのではない。僕の意志を変えさせたのは、氏のたば こ好きと、僕の極度なたばこ嫌いである。
 
 「僕がゴルフを始めて、1年後に勝 負して、僕が勝ったら禁煙してくれますか?」。「当然ですよ!」。この約束が僕とゴルフとの出会い。45歳の1月1日に僕はゴルフを始めた。当時、僕は 「パー」の意味すら知らなかった。当然、氏の「ハンディ11」がどれほどたいへんな世界であるかも。
 
 それから僕の挑戦が始まった。思い こんだらまっしぐらタイプの僕は、ひたすらボールを打ちまくった。多い日は1日に800球。ひと口に800球というが、これはたいへんな数である。いっき には打ち切れないから、朝、昼、版と3回に分けて打つことが多かった。
 
 たかがゴルフとはいえ、これだけの 量を打つと相当な運動量になる。1週間もすると体がしまってくる。体重も2キロほど減り、少し出っ張り始めていた腹は完全に引っ込んだ。しかし、何事も、 「過ぎ足るは....」である。
 
 2月19日に日本フィルの福岡公演 がある午前中のこと。練習場でボールをたたいてマットがポーンと飛び出した瞬間、肩に激痛が走った。その夜は寝返りを打つ度に、痛みで目が覚めた。そんな 状態なのに、帰京してすぐに福島の竹馬の友とのゴルフにでかけた。今でこそ雨が降ると今日は止めようと弱気になるほどに気持ちは落ちているが、当時は雪が 舞おうが雷が落ちようが、という高揚した気分であった。
 
 ふるさとのゴルフ。昔の腕白時代の 友達とのゴルフは青春の香りそのもの。野山を所せましとかけずりまわったあとの爽快感はあの時代だけのものと思っていたが、どうしてどうして、真夏の汗の したたり落ちる中でもそれを発見できるのは嬉しい。フェアウェイに立つと、ゆるやかに青春の時間が戻ってくる。顔にこそ、深い溝が刻まれてきたが、精神は 昔のままだ。
 
 常磐高速道路をいわきに向けてひた 走る。突然くしゃみが出た。運転中のくしゃみはやっかいなもので、目をつむってしまう。一瞬視界が消える。加えて体にもの凄い痛みが走った。金縛りにあっ たように体が動かない。もう1〜2秒続いていたら命がなかった。車は蛇行し、反転した。しかし神は僕を見捨てなかった。他の車がうまくさけてくれ、惨事を 免れた。
 
 痛みで運転は不可能。僕は竹馬の友 に出向いてもらい、彼の運転で医者に駆けつけた。レントゲンの結果は、「骨折」。疲労性骨折というのだそうだ。筋肉の力で骨が折れることによって、骨も筋 肉も静養状態になる。肉体の神秘だ。
 
 せっかく一つの目標を持って始めた ゴルフなのに、退却を余儀なくされた。僕は光明にすがるように医者に尋ねた。「先生、パターはしてもよいでしょうか」、と。まず聞くべきは、「指揮はでき るでしょうか」のはずが。
 
 2〜3ヶ月の静養が必要となったの で、とりあえずアムステルダム対決を3ヶ月延期していただいた。コンサートはといえば、その間、痛み止めの注射をし、さらにミイラのようにさらしを巻いて 指揮をするはめになった。
 
 しかし、回復は意外なほど早かっ た。医者には禁じられていたけれど、少しずつ走り込んだり軽いアプローチなどを始めた。ブダペストの9ホールあるゴルフ場は、当時はお客が少なく、10個 ほどのボールをうちながらラウンド練習ができた。
 
 1年ほどの間に、僕は結構、腕を上 げていた。たとえば、奇遇というか、前年に骨折した2月19日(国際指揮者コンクール優勝の発端もこの日だった)にオランダのケネマーで、78のスコアを 出すことができた。アウトの2ホール目にはホールインワンも記録した。
 
 そして、対決の日が来た。この日、 僕はなかなか調子が良く、パットは好調だった。ところが、JAL支店長は、ショットは素晴らしいのだが、パットがさっぱりで、ほとんど3パット、4パット なのだ。負ければ「禁煙」という重圧が、イップスを強いているようだった。
 
 13ホール目に入った時、リードし ていた僕は、氏に「こういうスポーツに巡り会ったことにたいへん感謝しています。今後の人生の大きな布石ができたといっていいほどです。あらゆる意味で “指揮”に好影響を及ぼすゴルフを始めさせてくれたのは支店長です。もし僕が勝てても内容ではまったく話になりません。禁煙の件はナシということ で....」。
 
 そのとたんに、氏のパターは別人の ようになり、結局この対決は負けてしまった。
 
 もうあれから何年も経つが、ゴルフ はちっともうまくならず、相変わらず、同じミスを繰り返している。自分がうまく指揮できれば、オーケストラが最高の響きで応えてくれる。このような素晴ら しい世界に住みながら、時には才能のなさを呪う日々。音楽に壁が...、そしてゴルフにも...。僕の前には立ちふさがる壁が。
 
 

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