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緑の丘日本語補習校
6カ月を振り返って
野村 智子
今年の6月、東京からブダペストに夫の赴任に伴い家族で越してきた。海外は3か国目だ。10年前、チェコの首都プラハで初めての外国暮らしを始めた時はワクワクした。若者に交じって語学学校で学ぶのは新鮮だったし、長男を保育園に預けかつての仕事のコネを使い、週三回のアルバイトを始めた時は、自分もプラハの一部になれた気がした。その後長女が生まれ、長男同様保育園に通い、二人とも順調にチェコ語を話し始めたことがとても嬉しかった。そんな充実した生活を4年半送った後、ロシアの首都モスクワで2年半暮らした。チェコ語とロシア語は同じスラブ語属。ロシア語のキリル文字は独特だけど、音の7割がほぼ同じと言われているせいか、長男は数カ月でロシア語を話し始め私達をびっくりさせた。
順調にと思われたロシアでの暮らしだったが、長男が地元小学校に通い始めたとたん、日本語とロシア語の学習の両立の悩みが始まった。ひらがなやカタカナだって簡単ではないのに、日本では小学1年生で80字、2年生では160字も漢字を習得しなければならない。更にロシアの学校ではキリル文字を読みこなし、プーシキンの詩を暗唱しなくてはならない。ハンガリーでも詩の暗唱は定番だけど、いきなりプーシキンはハードルが高い。Google翻訳を使ってみてもチンプンカンプンだ。補習校のないモスクワでは子供達の日本語学習は私一人の手に委ねられており頼るところもない。このままでは日本語もロシア語も中途半端になるという焦りから、私は夫に日本帰任を懇願するようになっていった。
平穏だった3年の東京暮らしを経て再びやってきたヨーロッパ暮らし。プラハ時代に遊びに来たブダペストのイメージはプラハに似ている、だった。川を挟んで町が発展しており、対岸から見上げる王宮の景色にはデジャブ感さえあった。使いやすいトラムやメトロの感覚も同じ。まるで帰ってきたみたい。小学6年生と2年生になった子供達は前より手がかからなくなっているし、現地の人たちがこぞって彼らのチェコ語、ロシア語の流暢さを褒めてくれたのだから、ハンガリー語もほどなく話せるようになるだろう。すんなり新しい暮らしが始まるはず、、、、などという甘い期待はもちろん幻想だというがすぐにわかったのだが。
私達が選んだ学校はサボー・マグダというハンガリーで最も著名と言われる作家の名を冠したバイリンガルスクール。授業は課目によってハンガリー語と英語で行われるため、2か国語一挙両得を狙ったちょっと欲張りな選択だ。インターナショナルスクールと違って生徒の多くはハンガリー人だが、ハンガリー語を母国語としない生徒のためにインターナショナルクラスなるものを設けており、例えばハンガリーの歴史の授業のようにハンガリー語を理解できない生徒にとってはハードルの高すぎる授業の際は、別途インターナショナルクラスに参加し、一からハンガリー語を教えてくれるというありがたいシステムを持つ。しかも6月半ばから8月末までの長い夏休み中、二人の子供のために個人レッスンを提供してくれたのだ。これによって基本的な単語やセンテンスを学び、9月からの新学期を多少なりともスムーズに迎えられるはずだった。
夏休み中子供達はよく頑張ったし、私も先生方と一緒になってよくサポートしたと思う。しかし語学の習得というのは一朝一夕に成せるものではなく、空気の抜けた浮き輪程度しか持たず広い海に放り込まれた子供達は、どちらに向かって泳げばいいのかさえ分からぬままさまよい続ける日々が始まった。しかし、状況的にはほぼ同じであるにもかかわらず、長男と長女の様子はまるで違っていた。優等生タイプの長女は、完璧どころか手掛かりさえつかめず周りで起きていることが全く分からない中で自信を無くし内にこもりがちになったのに対し、マイペースであり良くも悪くも独自の価値観をもつ長男は、新しい環境を受け入れ、わからないながらも日々を楽しんでいるようだった。長男は多少英語が理解できたことも幸いしたのだろう。
頑張り屋の長女はそれでも弱音を吐かず登校していたが、1週間が過ぎたときもう学校に行きたくないと言って大粒の涙をぽろぽろ流して訴えたことがあった。彼女の気持ちは痛いほどわかる。こっちまで泣き出しそうだ。先生もクラスメイトも心配して泣いている長女に声をかけてくれた。結局、私は何も言えず黙って背中を撫でていただけだったけど、ひとしきり泣いた後自分から教室に戻っていった。しっかり私を見て、もう帰っていいよと言って。その時何かが、ほんの少しだけど何かが変わったんだろう。あの日から3カ月経ち、ハンガリー語も英語もまだまだではあるけど確実に上達してきている。試行錯誤しながらやってきたことも少しずつ成果が出てきたのかもしれない。ただ、日本人の内気さからか学校であまり話していないようだ。語学堪能なヨーロッパ人からすれば3カ月もたつのになぜ彼らは話せないんだ?となるみたいだけど、彼らのゆっくりではあるけど確かなあゆみを知っている私はもう少し待ってとお願いしている。そう、私達日本人はゆっくりとしか話せるようにならない。あなたたちと違って語学習得に適したDNAを発達させる機会が少なかったのだ。
そんな彼らにとって、週末の補習校は大のお楽しみの時間。仲良しになったクラスメイトと日本語でいっぱいおしゃべりできる。日本語に関しては(今のところ)誰よりもうまい自負がある。大変だったあの時期を乗り越えられて今があるのは補習校の仲間の助けがあったおかげであることは間違いないと思う。そして今回の学習発表会。土曜日だけの日本語授業であれだけ立派な発表ができるなんて!学年を追うごとに内容も充実し日本語や古典への理解や親しみも増していた。彼等は皆平日ハンガリーの学校での授業もきちんとこなしながら週末の日本語学習も怠らずがんばっている。先生方やご家族のサポートも欠かせないことは間違いなく、本人の努力と整った環境がなければ達成しえない難易度の高い試みが成功しているのだ。大変だけれど価値のある、きらきら光る宝物だ。頑張る補習校の子供達の姿を見て、この6カ月の大変さが報われた気がした。大丈夫だよ、大きな進歩は実感できないかもしれないけど、続けていくことで確実に成長しているんだよ。お母さん達にはそれがわかるよ。明日もまた、頑張ろう!!
(のむら・ともこ)
Web editorial office in Donau 4 Seasons.