著作発表の経緯
Változás és örökség-Ferdeszemmel
Magyarorsyágról(『変化と継続-やぶにらみのハンガリー社会論』)と題する著書を出版した。体制転換による社会変化と、表面的な変化にも
かかわらず社会の根底に流れ続ける前体制の社会的行動様式を分析したものである。副題は、「灯台下暗しのハンガリー人が気づかない視点から社会を分析す
る」というユーモアと皮肉を込めたタイトルである。
2006年末に週刊誌Élet és Irodalomに掲載されたA kincstári
kapitalizmus(国庫資本主義論)が反響を呼んだので、2007年2月にその続編Rendszerváltás
értelmezéséről és „vendégmunka” jelenségről(体制転換の理解と「ゲストワーカー現象」)
を、さらに5月にはPragmatizmus és
populizmus(プラグマティズムとポピュリズム)を同誌に発表した。双方とも現在のハンガリーの政治状況の批判的な分析にもとづき、ハンガリー資
本主義の特異性を論じたものだ。翌2008年3月には当時の健康保険改革構想を批判したNem minden változtatás
reform(すべての変革は改革にあらず)が同じくÉlet és
Irodalomに掲載されたが、この論文はSZDSZが推進する健康保険民営化を厳しく批判する内容だったため、国民投票で政府案が否決されまで掲載が
数ヶ月も見送られた。しかも、原文に含まれていた同誌の常連論客で元SZDSZ国会議員バウエル・タマーシュを批判した部分は、編集部の権限で削除され
た。以後、同誌編集部との意見の違いが明確になり、Élet és Irodalom誌との関係が冷え込んだ。
現在のハンガリーのメディアは雑誌・新聞だけでなく、テレビやラジオも政治的な党派色が鮮明である。友人たちを自宅に招く時も、それぞれの支持政党を知ら
ないと気まずい雰囲気になるから、客人の組合せに気を遣う。困ったものだ。
さて、昨年春以降、何本かのハンガリー社会論を認めたが、どこにも発表しないで貯めておいた。手許においておくのはもったいないから、自著として出版しよ
うと思い立ち、昨年夏から全体構想を練ってきた。「体制転換の哲学」を新たに書き下ろして巻頭論文にし、これまで発表した論文や手許にある論文を体系的に
並べて第一部とした。
第二部として、『異星人伝説』と『コルナイ自伝』の訳者後書きを据えた。ただ、この2編だけではパンチ力に欠けるので、昨秋、横浜国立大学で発表した学会
報告「コルナイ経済学をどう評価するか」を付け加えて、第二部「書籍の世界」(könyvvilág)とした。
第三部としてハンガリーに関係する映画評論を据えた。最初が「ビューティフル・マインド」で、これはノイマンとナッシュの業績を比較したもの。この最初の
原稿は当地のfizikai
szemle(物理評論)の2002年6月号に発表され、日本語版が「経済セミナー」(2002年7月号)に掲載された。さらに、アメリカの健康保険シス
テムを扱ったSickoを題材にしてハンガリーの議論を批判した評論、さらにサボー・イシュトヴァーン監督になるTaking
Sideへの評論を加えた。この最後のものは、フルトベングラーのナチへの協力をテーマにしたものだが、ハンガリーの秘密警察と政治家の関係を暗に批判し
た評論である。この3編で第三部「映画の世界」(filmvilág)を構成した。
こうして、全体で3編14章構成の論文集が出来上がったが、出版社サイドが第1部をさらに理論編と社会評論の二つに分ける提案したのでこれを受け容れ、最
終的に4編14章構成になった。
ハンガリーの友人たち
私のハンガリー語は30歳過ぎてから学んだ語学だから、絶対的な限界がある。言語習得で書き言葉はもっとも難しい。母語であっても誰もが知的な文章を書け
るわけではない。母語としない外国人が読ませる文章を書くのは不可能である。だから、書き言葉は最終的に母語とする専門家の手による校正がなければ、文章
として完成しない。
私はハンガリー語で書き始めるが、そのハンガリー語文をまず身近な人に見てもらって、とにかく意味が通じるハンガリー語文を完成させる。これを知人・友人
に送って感想を聞いたり、文章表現の修正意見を求めたりして、最終稿を仕上げる。もちろん、雑誌や書籍に掲載する場合には、さらに編集部による表現の最終
的なチェックや校正者の手が入る。
これまで私の日本語書籍出版でいつも表紙デザインや挿絵を寄せてくれた画家がいる。著名なグラフィック画家のカシュ・ヤーノシュである。コルナイの日本語
翻訳書には彼のグラフィックを使用した。今回もカシュに論文集の原稿を渡し、表紙デザインの構想を依頼したが、癌を患っていて新たなものを構想するエネル
ギーがなくなっていた。そこで、以前に日本語出版で使ったグラフィック画から私がテーマに合いそうなものを一つ選び、それをベースに新たに仕上げてもらっ
たものが、今回の書物の表紙デザインである。
コルナイには書籍の推薦文を依頼した。もちろん、事前に原稿を送った。昨年末、コルナイが訪日する前に、彼の自宅で夕食をとりながら、私のコルナイ経済学
論にたいする異論が私に伝えられた。どうして譲れないと主張する一つの論点以外は、私の批判的な考察の大部分を受け容れた感触を得た。この出版記念会1週
間前には、今度は私の家で日本の土産話を聞きながら昼食をとったが、その時に原稿の印刷校正版を手渡した。この材料がないと、出版記念会の挨拶は引き受け
られないという。この程度のことでも、著作にしっかりと目を通してから、自分の意見を表明したいというのがコルナイの姿勢である。コルナイの実直さが現れ
ている。
そして、私の著作を書物の形にするのを最初から最後まで支援してくれた友人がいる。写真家のセレーニィ・カーロイである。美術出版社を経営する彼は自費出
版で本を制作できるが、書籍販売の流通システムに入っていないので、一般書店へ流すことができない。それではもったいないからと、知り合いの出版社を片っ
端から当たってくれ、最終的に学術・美術書を出版しているBalassi kiadóに出版社が決まった。
書名は私が決めた。Ferdeszemmelという副題はザライが提案した。「斜に構えて見る」という皮肉を込めた意味になるが、「やぶにらみ」という
ユーモラスなニュアンスもある。
出版記念会
最終稿は昨年末に出来上がっていたが、出版社の編集部に一月半ほど留まっていたために、書籍の完成が3月末にずれ込むことになった。この著作をどのように
宣伝しようか思案していたようだ。漸く2月半ばになって、この4月のブダペスト国際書籍フェアに、同様のテーマをもった別の2冊の著作とともに、「ハンガ
リーの過去、現在、未来」というテーマでBalassi kiadóのブースを作り、書籍出版記念会を開くという方針が決まった。
私の方は、これまで世話になった人々や友人・知人を集めた個人的な出版記念会を開くことを決め、3月6日に日にちを決めた。多忙な人々のスケジュールを調
整した結果、書物の完成を待つことなく出版記念会を開くことになった。しかし、現物がなければ形が付かないからと、セレーニィは印刷用の体裁を整えた初稿
を知り合いの印刷所で10部だけコピーし、それを簡易製本して出版記念会にもってきてくれた。
『異星人伝説』の日本語出版時には、科学アカデミーで物理学者を中心とした多くの科学者を集めて記念会を開き、その後、レセプションを開いた。音楽を入れ
て楽しい行事にした。今回もセレーニィ、カシュ、コヴァチ、ザライ、コルナイの主要な友人たちの辞をもらうだけでなく、その前後に音楽を入れて、エレガン
トな文化行事にすることに努めた。『異星人伝説』の出版記念会と同様に、会の司会は友人のチュルガイ・アルパード教授(パズマーニィ大学、ノートルダム大
学教授)にお願いした。チュルガイ教授はインテルのグローヴと同学年で、人工網膜チップ開発で知られているロシュカ教授や前科学アカデミー総裁グラッツと
は竹馬の友である。体制転換期に彼が科学アカデミー本部で事務局長をしていた時に知り合い、今は私の会社の事業パートナーである。
出版会には実に多彩な友人や知人が集まってくれた。アカデミーの経済研究所のファゼカシュ所長ほかの研究員、旧経済大学(現コルヴィヌス大学)からはザラ
イ元副学長と大学院議長のテメシ、コピント-タルキ研究所のオブラートなどの経済学者、政治学者のケーリ・ラースロー、アカデミー材料研究所所長のバル
ショニィ、パズマーニィ・ピーテル大学の教学部長のソルガイなどの研究者。音楽の分野からは演奏を引き受けてくれた国立フィルのバルタ・ジョルト夫妻、国
立フィル代表のコヴァチ・ゲーザ、MAVオーケストラ代表のレンドヴァイが駆けつけてくれた。鍋倉大使初め、日本に関係しているハンガリーの友人たちや、
当地に長期に滞在されている日本の知人・友人たちにも来ていただいた。出張や休暇で参加できない友人たちもいた。OTP銀行副頭取ウルバンは国外出張、コ
ルヴィヌス大学学長メサローシュはスキー休暇で欠席だった。友人のプロスポーツ選手も呼ぼうと思ったが、今回は声をかけなかった。
記念会の後、糸見さんのご主人で映画監督のコーシャ・フェレンツさんからは、「このような会を開いてもらって有り難かった。今のハンガリーでは政治的党派
を超えて、知識人や文化人が一堂に会することができなくなっている。今日の参加者のような多様な知識人の集まりは、君だから開けた。この会で私が発言する
機会が得られたなら、<今度は何時このような会を開くのか>、と質問しようと思っていた」という言葉をいただいた。
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