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エクソフォニーと違和感と文学研究
Tóth Julianna Nikolett


 ちょうど半年間日本に住んでいるハンガリー人の私は、大学の同級生、バイトの同僚、友だちなどから最初にいつも同じ質問をされる。「なぜ文化も距離もずいぶん離れている日本に興味があるのか。何をしに来たのか」。
 今は考えなくても答えが口から出てくる。「私はもともと世界文学に興味があり、英訳文またはハンガリー語訳文で現代日本文学を読み始めた。とても面白く原文でも読みたいという気持ちが高ぶったので日本学科で日本語や日本文化を専門として勉強し始め、今は現代文学を研究しに日本に来た」。こんな風に答える。そうすると、現代日本文学って、いったいどういうものを研究しているのかとまた聞かれる。

 現代日本文学という言葉を聞くと、皆さんはどういう想像をするのだろうか。村上春樹や、吉本ばななや、江國香織が浮かぶのではないだろうか。それはたしかに現代日本文学だが、現代日本文学の魅力的な作品はこの作家たちのものだけではない。
 「日本亡命文学」、と返事をする。時には、「移住作家の文学研究だ」、と付け加える。この時、大体の場合、会話が止まってしまう。相手がよくわかっていないことは明白である。「ぼうめいぶんがく」とか、「いじゅうさっか」という言葉は、聞くだけで漢字を見ないとその意味がわからない場合が多いようだ。または、もしかしたら自分の外国人風のアクセントがちょっと変なのかもしれないと思い、詳しく説明してみる。

 今の私の研究テーマは多和田葉子が日本語で書いた短編小説である。多和田葉子は日本に生まれ、22歳の時にベルリンに引越し、移民としてそれからもずっとドイツに住んでいる作家だ。母語の日本語でも、外国語として学んだドイツ語でも、小説を書いている。そのようなことを言って説明する。それでも、分かってもらえない場合が多い。
 文学研究者の間では多和田葉子の名前は有名で、彼女の作品に関する論文は英語、ドイツ語、日本語などさまざまな言語で書かれている。最近研究テーマとして広がっている「移民文学」、あるいは「亡命文学」の代表的な現代日本女性作家である。多和田自身も亡命文学の異質性や創造上の魅力に関してエッセイや論文を書いたりする。
 移民文学、あるいは越境の文学は英語ではmigrant literatureあるいはborder-crossing literatureと呼ばれる。これは1980年代から始まったもので、日本人の中にも、移住民であり、バイリンガルな存在として、越境的な特徴を持つ作品を書く作家たちがいる。日本語で書いている外国人の中ではリービ英雄、外国語で作品を書いている日本人作家の中では多和田葉子が一般的に知られているだろう。 

 多和田葉子は上記のように、昭和35年(1960)に東京に生まれ、22歳の時にベルリンに引っ越した。最初はドイツ語をあまり知らず、毎日の生活も一苦労であった。しかし、ドイツ語を母語とする人が毎日使っている自然な表現、ことわざなどを、多和田は、まるで周囲の大人の話している言葉を聞いて初めて言語を習得する子どものような立場から理解した。それは、多和田にとって新鮮な感覚だったそうだ。子供の時に母語を学ぶプロセスを、外国語を勉強し始めた大人が経験したということは、確かに衝撃の体験だっただろうと思う。
 多和田葉子は短編集、長編集、小説、エッセイなどを書き、さまざまな賞を受賞している。テーマは、異文化から来た主人公、コミュニケーション、非母語話者が使う奇妙な言葉使いや、それを含めた言語そのもの、あるいは、移民や社会問題などである。海外に住んだことのある者にとって、これらのテーマは全部よく知っているものだろう。外国に住み、自分が伝えたいことをちゃんと説明できないもどかしさを抱えながら、日常生活の問題を解決していく。違和感があるところに住み始めると、驚かされることが多く、自分の母語とは何か、文化とは何か、などの疑問が頭に浮かんでくる。そんなときに思い出されるのが多和田葉子作品のテーマなのである。
1993年に芥川賞受賞作品になった『犬婿入り』は、21世紀を舞台にした異類婚の物語である。主人公の北村みつこは、39歳の独身女性である。塾の講師として働きながら、多くの不思議な行動をとる。この都市では移住民であるみつこは、ポーランド語で本を読み、塾の授業中に「犬婿入り」などの変な民話を教え、鳥糞で肩の痛みを治し、近所に住んでいる母親たちの普通の日常生活を乱す。みつこはヒッピーであったなど、いろいろな噂が広まる。ある日、イイヌマ太郎という男がみつこのところに来る。彼はあまり話もしないまま、みつこと交わる。イイヌマは犬に似ているうえ、みつこが教えた民話と大体同じことが起こるので、これは現代の「犬婿入り」民話だろう。また、太郎もみつこも移住してきた存在である。この作品は、異なる存在への認識や日本社会の問題を表していると言える。
 『エクソフォニー -母語の外へ出る旅』は、さまざまな町を列車で通過するたびに感じる語り手の反省や思想などが書かれているエッセイ集である。この作品でも、多和田の言葉や言語に対する繊細な感性がよく現れる。この本はただ海外に旅行した経験がある読者にとっても面白いかもしれないが、外国に住んでいる読者にとってはさらに興味深い本だろう。
 ほかにも、多和田は『雲をつかむ話』、『言葉と歩く日記』、『傘の死体とわたしの妻』など、数多くの不思議な世界を表している作品を母語の日本語で制作した。一方で、ドイツ語でもさまざまな作品を書いている。
 村上春樹が外国で一番よく知られている日本人作家であることは間違いないと思う。江國香織のように、日本では有名だが海外ではよく知られていない作家も多々いる。多和田葉子は、日本人の間ではそんなに有名ではなく、どちらかと言えば海外で知られている作家である。多和田作品は日本語で書かれているが、ドイツ文学が好きな読者のほうが、日本文学が好きな読者よりも気に入るかもしれない。現在移住民である私にとっては、一番興味深い作家だ。海外に住んだ経験がある日本人の皆様にとっても、きっと面白い作品であると私は信じている。

 なぜ文化も距離もずいぶん離れている日本に興味があるのか。何をしに来たのか。あまり役に立つ質問ではないと思う。返事も大して面白くない。私は毎日、次のような質問を自分自身に問う。「これから、外国人の日本文学研究者として、この奇妙で魅力的な現代日本文学作品を理解するために、私はどう研究をしていけばいいのか」。その回答として頭に浮かぶのは、私はエクソフォニーと違和感のおかげで、日本人の知らない、あるいは日本人にはあまり興味を持たれない現代文学の価値を見つけ、研究することができるということだ。日本国内の国文学研究は、ほとんどが日本語を母語とする研究者によって行われている。しかし、現代文学の場合は、さまざまな〈違和感〉の現象が扱われている。新鮮な観点を持ち、自国の文学伝統との比較研究などもできる、日本語を外国語として学んだ研究者も必要ではないだろうかと私は思う。つまり、外国人が日本文学を研究する意義はこれではないだろうか。さらに、日本人と外国人の研究者が協力すれば、きっと魅力的な研究が可能であると私は思っている。

 

(トート・ユリアンナ・ニコレット)
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.