1956年 10月 23日にブダペストで発生したデモ行進から始まり、その翌月にかけて起こった一連の事件は、「制限の中の自由」を求めるものであったが、いつの間にか「無限の自由」を求めるものに変わり、最終的には大きな力の前に潰された。しかし、この「潰された革命」を未来における新たなる自由を求める運動につなげるようとする種は残っていた。「閉ざされた空間」で起こっていることを映像として記録し、「開かれた空間」に発信しようとする者たちもハンガリー人にはいたのである。その中に、後にアメリカの映画界で活躍するコヴァーチ・ラースローとジグモンド・ヴィルモシュがいた。
 コヴァーチ・ラースローは、1933年5月14日、ハンガリー中部に位置する小さな街、ツェツェに生まれた。ラースローが 10歳の時、村の小学校に移動式映画館が設置された。ラースロー少年すぐに映像の世界の虜になり、上映される映画は逃すことがなかった。

 ラースロー少年はブダペストで中等教育を受けた。しかし、学校で教えられる科目にはさほど興味は示さず、映画館に足しげく通っていたという。日に 2-3本の映画をみることもあった。学校の成績は芳しくはなかったが、 2回目の挑戦でブダペストの演劇・映画芸術アカデミー(a Filmm.v.szeti Akad.mia dr.ma-.s filmm.v.szet szak:現、演劇・映画大学:Sz.nh.z -.s Filmm.v.szeti Egyetem)に入学することができた。 1952年のことであった。
 そして 1956年 10月 23日、ブダペストで行われた自由を求めるデモに端を発した一連の事件が起こったのである。コヴァーチは、学校からカメラを借りると、学校の友人であり、生涯の友となったジグモンド・ヴィルモシュと共に、日を追うごとに勢いを強めていく「革命」の様子を、白黒 35ミリフィルムに収めていった。そして、騒動が沈静化したように思えた 11月、そのフィルムをもってオーストリアに逃れ、翌 1957年 3月、アメリカ合衆国に亡命したのである。

 しかしこの頃には、人々の間では東欧の小国で起こった「革命」への関心は薄れていた。そしてコヴァーチらが命懸けて持ち出したフィルムが脚光を浴びるのは、数年後のことであった。 1961年、このフィルムは CBC テレビのドキュメンタリー番組として放送された。ナレーターは、「アメリカの良心」と呼ばれるウォルター・クロンカント(1916年‐2009年。第二次大戦の従軍記者としてヨーロッパ戦線をレポートし、戦後は黎明期のテレビジャーナリズムの世界で活躍したアメリカのジャーナリスト)であった。
 コヴァーチはアメリカに定住することを決め、 1963年にアメリカ市民権を得た。すぐには映像の仕事を得ることはできず、いくつかの仕事を転々とした。メープルシロップ工場で働いたり、保険会社の文書管理をしたりもした。その後、同じくアメリカに亡命していたジグモンド・ヴィルモシュと共に映像の撮影技師として活動を始めた。

 1969年、コヴァーチ・ラースローは映画「イージー・ライダー」(デニス・ホッパー監督のアメリカン・ニューシネマの代表作。 1969年、第 42回アカデミー賞で助演男優賞と脚本賞にノミネートされた)の撮影を担当し、その名を世に知らしめた。そしてその後、アメリカン・ニューシネマ( 1960年代から 1970年代にかけてアメリカで製作された反体制的な若者の心情を描いた映画作品のジャンル。日本でつけられた名称。アメリカではこの時期はハリウッド・ルネッサンスと呼ばれている)の多くの作品の映像を担当したほか、 B級映画、ドキュメンタリー映画の撮影も手掛けた。作品を挙げるときりがないが、ペーパー・ムーン( 1973年)、ラスト・ワルツ(1976年)、サンフランシスコ物語( 1980年)、ゴーストバスターズ( 1984年)、マスク(1985年)、ラジオ・フライヤー( 1992年)、ベスト・フレンズ・ウェディング( 1997年)、トゥー・ウィークス・ノーティス(2002年)などがある。2002年、全米撮影監督協会から特別功労賞を授与された。
 コヴァーチは、 51歳の時に結婚し、2人の娘をもうけた。晩年には孫娘も生まれ、穏やかな生活を送っていたようだ。コヴァーチの死は突然訪れた。2007年 7月 22日、ビバリーヒルズの自宅で就寝中に息を引き取ったのである。74歳であった。

 ジグモンドは、 1930年 6月 16日、ハンガリーのセゲドで誕生した。父は、有名なサッカー選手兼コーチであった。
 ジグモンド・ヴィルモシュは中等教育をセゲドで受けた。セゲドで 1番古いギムナジウムに通っていた。ヴィルモシュ少年は小さいころから絵画や写真に強い関心を示していた。また、好きな学科は文学であった。その延長として、ヴィルモシュ少年は自然と映画の道へ進んでいった。ブダペストの演劇・映画芸術アカデミーに入学し、映像の勉強をした。この演劇・映画芸術アカデミーで、生涯の友であるコヴァーチ・ラースローと出会った。
 1956年のハンガリー「革命」が起きたのはそんな時であった。ジグモンドは、コヴァーチ・ラースローと共に、混乱するブダペストの街の様子をフィルムにおさめた。そして、事態が収束したかに思えた翌 11月、9000メートルにも及ぶ量のフィルムをカバンに詰め、決死の覚悟でオーストリア国境を越えたのである。

この 2人のハンガリー人青年の勇気ある行動のおかげで、「西側」の人々が 1956年のハンガリー「革命」の実態を知ることとなった。このフィルムの映像が実際「西側」の人々の目に触れたのは 1963年のことであった。フィルムは体制転換後、ハンガリーへ返された。
 1957年、ジグモンドはコヴァーチ・ラースローと共にアメリカへ亡命し、 1962年にアメリカ合衆国市民権を取得した。亡命直後は、語学の面においても苦労し、なかなか思うような映画の職に就くことはできなかった。写真の現像の仕事をするなど、いろいろな職を転々とした。 1960年代も中盤に差し掛かると、当時流行っていた低予算映画の世界に入り込むことができ、晴れてアメリカで映像の仕事に就くことができた。ジグモンドは、B級ホラー映画やドキュメンタリー映画などを手掛け一躍有名になった。

 彼の撮影技術は、ブライアン・デ・パルマ(1940年.、アメリカの映画監督)やロバート・アルトマン( 1926年.2006年、アメリカの映画監督)、スティーヴン・スピルバーグ( 1946年.、アメリカの映画監督)など、当時若手であった監督の目に留まり、当時全盛期であったアメリカン・ニューシネマの有名作を数多く担当した。
 1977年 11月に公開されたスピルバーグ監督の作品「未知との遭遇」では、コヴァーチ・ラースローと共に映像を担当し、見事アカデミー撮影賞に輝いた。また、撮影技術だけでなく現像処理についても新たな技術を追求し、表現を豊かにさせるために多大なる貢献を果たしている。
 彼の手掛けた作品も、コヴァーチ・ラースロー同様、挙げるときりがないのだが、少し挙げておきたい。「ギャンブラー」(1971年)、「脱出」(1972年)、「未知との遭遇」( 1977年)、「天国の門」( 1980年)、「暗殺者」( 1995年)、「世界で一番パパが好き」(2004年)「ウディ・アレンの夢と犯罪」( 2007年)、「恋のロンドン狂騒曲」( 2010年)などがある。ジグモンドは、生涯で 80以上の映画作品の映像を撮り続けた。 70歳を過ぎても現役で、意欲的に活動していた。

 ジグモンドは、生涯 2度結婚している。最初の妻はエリザベス・フーゼスといい、 2人の間には 2人の娘がいる。2人目の妻は、作家であり監督でもあるスーザン・レーテルである。
 ジグモンドの撮影技術はアメリカで高く評価され、生前も多くの功労賞も受けた。 2003年には、 ICG(映画撮影監督協会)に映画撮影史上最も影響を与えた人物の一人としてその名が挙げられたほどである。
 ジグモンドは、生涯の友コヴァーチ・ラースローの死から 9年後の 2016年 1月 1日、カリフォルニア州のビッグサーにある自宅でその人生の幕を閉じた。 85歳であった。ジグモンド・ヴィルモシュが旅立った 2016年、アメリカだけでなく彼の生まれ故郷であるセゲドの地でも記念碑が建てられた。2017年にはセゲドで国際映画祭が開かれるなど、人々はジグモンド・ヴィルモシュの功績を忘れることはないだろう。

 2008年、アメリカ映画協会はコヴァーチ・ラースローを偲んで、コヴァーチ・ラースロー賞を創設し、映像を学ぶ優秀な学生に授与すると発表した。そして、 2008年、コヴァーチ・ラースローとジグモンド・ヴィルモシュの 50年に渡る友情をたどるドキュメンタリー映画がつくられた。映画評論家レオナルド・マルティン(1950年.。アメリカの映画評論家であり歴史家)は、コヴァーチ・ラースローとジグモンド・ヴィルモシュなしに、 60年代70年代アメリカ映画は花開かなかっただろうと語っている。

 
木村香織『亡命ハンガリー列伝』より