ブダペストの中心にそびえ立つ聖イシュトヴァ ーン大聖堂。その出口付近には悲劇の枢機卿ミン ツェンティ・ヨージェフを紹介したパネルがあり、大聖堂を訪れた人はミンツェンティの運命を知る ことができる。ミンツェンティは、第二次世界大 戦後ソ連の影響下で共産色が色濃くなってきたハ ンガリーにおいて反共産主義の人物として逮捕され、拷問を受け投獄された。1956 年革命時にナジ・イムレ政府により釈放されるが、革命が潰さ れるとアメリカ大使館に避難し、1971 年に隣国オーストリアに亡命するまでの 15 年間そこを出ることはなかった。今回はそんなミンツェンティ枢機 卿の生涯を紹介したいと思う。
 ミンツェンティ・ヨージェフは 1892 年 3 月 29 日、オーストリア=ハンガリー二重君主国の王領ハン ガリー・ヴァシュ県の小さな村、チェヒミンツェント(Csehimindszent)で生を受けた。出生時姓は ぺヒム。彼の両親は農業を営んでいたということで ある。父親のヤーノシュは、若いころは村の裁判 官や後見人、そして後には村の学校の校長を務 めた人物であった。
 ヨージェフはチェヒミンツェントの小学校を卒業後、ソンバトヘイの聖ノルベルト神学校(ギムナジウム)、そしてソンバトヘイ教区神学校で学んだ。ソンバトヘイ教区神学校卒業後、ヨージェフは司祭に叙階された(1915 年)。そしてその後の 1917 年、ザラエゲルセグにあるギムナジウムの校長になった。ヨージェフは厳格な教師であったと伝えられている。

 第一次世界大戦の敗戦色が色濃くなってきた1918 年 10 月、ハンガリーでは民主主義革命が起き、カーロイ・ミハイを首とした連合政権が発足した。11月にはハンガリー民主共和国として二重君主国から独立したがこの政権はすぐに行き詰まり、3 月にはクン・ベーラのハンガリー・ソヴィエト共和国が樹立した。ヨージェフは当時の社会民主主義・共産主義に対抗し、1919 年 3 月に逮捕されてしまう。同年 5 月には釈放されるが、ハンガリー・ソヴィエト共和国が崩壊する 8 月までは故郷の村に幽閉されていた。
 ヨージェフはその後釈放され、1919 年 10 月にザラエゲルセグ教区の司祭に任命された。そしてそこでキリスト教的社会活動に力を注ぐようになる。そのおかげでザラエゲルセグ教区にはたくさんの新しい教会やカトリックの施設、学校が設立され た。また、1924 年にヴァシュ県のポルノーアパー ティ村の修道院長に任命されたことで彼の影響力 はさらに広がっていった。
 1941 年(一説には 1942 年 2 月)、ヨージェフは苗字を故郷の村の名前の一部から取り、ミンツェンティと改名した。以下、本文ではミンツェンティと記す。

政治への働きかけから逮捕まで
 ミンツェンティは 1944 年 3 月、エステルゴムのバジリカでヴェスプレーム教区の司教に叙階された。政治的にはこの時期、ファシストの矢十字党に対抗し独立小農業者党の活動に携わっていた。1944 年 10 月、ミンツェンティは数人の司教と共に反ユダヤ主義批判と停戦要求を書いた文書を政府に提出した。そのせいで 2 週間後に逮捕され、ショプロン郊外のショプロンクーヒダにあった刑務所に投獄された。そして 1945 年 4 月にソ連軍により解放されるまでそこに幽閉されていたのである。
 1945 年 9 月、ミンツェンティは当時の教皇ピオ12世からエステルゴム大司教(ハンガリーの首都大司教)に指名された。彼はそれを受け入れ、エステルゴムに移った。その5 か月後の1946 年2 月、同じく教皇ピオ 12 世から枢機卿に任命されたのである。
 ミンツェンティは政治に関してもはっきりと自身の意思を示す人物であった。政府の政策に対し声を高くして反対意見を述べることもあった。それがゆえに、当時のハンガリー政府からは要注意人物として目をつけられることになっていくのである。
 そして 1948 年 12 月 26 日、まさにクリスマスの翌日にミンツェンティはエステルゴムで逮捕された。ミンツェンティはブダペストに移送され、アンドラーシ通り 60 番地にある地下に投獄され、拷問を受けた。そして翌年 2 月、公開裁判で終身刑が課せられたのである。ミンツェンティが問われた罪は、「ハンガリーでハプスブルグ王政復古を試みた罪」「アメリカのスパイ罪」であった。もちろんこれはでっち上げである。ミンツェンティはその後の 1955 年に自宅軟禁に減刑された。その理由は、欧米諸国からハンガリー政府への要請、そしてミンツェンティ自身が病気であったことであった。

1956 年革命と亡命
 1956 年 10 月 23 日に起きた民衆のデモは、ナジ・イムレの政権復帰とミンツェンティの釈放を要求した。ナジ・イムレが政権に返り咲くと、新しい政府は 10 月 30 日にミンツェンティを釈放した。ミンツェンティは釈放されるとすぐに政治活動を開始したのである。11 月 3 日にはラジオで演説も行った。
 しかし翌日事態は急変した。11 月 4 日、ソ連が軍隊を率いてハンガリーに侵攻したのである。ミンツェンティはそれを受け、ブダペストのアメリカ大使館に避難所を求めた。そしてそれ以降 15 年間、ミンツェンティがそこから出ることはなかった。
 1971 年 9 月ハンガリー政府はミンツェンティに出国許可を出し、翌月 23 日にミンツェンティはオーストリアのウィーンに亡命し、最後の数年をオーストリアの修道院で回顧録を執筆しながら過ごした。1975 年 5 月 6 日、ミンツェンティはウィーンの病院で 83 歳の生涯を閉じた。ミンツェンティの亡骸は彼の死から 16 年の 1991 年にハンガリーに戻され、5 月 4 日、エステルゴム大聖堂で再葬された。
 ミンツェンティに関しては、先に述べた聖イシュトヴァーン大聖堂の展示でも見ることができるが、エステルゴムのミンツェンティ博物館やテロ博物館(ミンツェンティが投獄されていた旧ハンガリー国家保衛庁の建物)にはより詳しい展示がある。また、拙著『亡命ハンガリー人列伝』のミンツェンティ・ヨージェフの項でより詳しく述べられている。

木村香織(2019 年)『亡命ハンガリー人列伝』合同会社パブリブ 283-286 頁より。