日本に帰国を決めたのは2013年の歳末。いくつかの日本の友人の訃報がきっかけとなった。75歳を前にして体力の衰えと病気や怪我への不安が帰国を決心させた。
 ハンガリーの医療施設の貧しさは豊かな日本のそれを知っている者には耐え難いものがある。帰国にあたって最も重大且つ困難だったのはブダペストに隣接するチョメル市に所有する不動産(土地と家屋)の処分だった。

不動産処分顛末記

 いくつかの不動産屋に査定を依頼して、最も高い価格をつけてくれたA社のホームページに掲載したのは4月のこと。低迷するハンガリーの経済下では不動産や自動車の売り物件は巷にあふれているが、購入希望者は少なく値段も多くは望めない。8月の末までに見に来た希望者は二人だけ。購入した時の値段よりははるかに安い値段を付けたつもりだが、現状とはかけ離れたかなり高い値段がついていたのだろうか。
 9月になって思い切って値下げをし、不動産屋のHPで告知した。すぐに反応があり、二組の家族が見学に現れた。二組目の家族はご夫妻と三人の女の子。非常に熱心に家をチェックし、幾つかの質問もした。帰って1時間、電話で購入したい旨の連絡があった。購入希望額の提示もあって、たちまち商談成立。あっけないほど簡単に決まった。但し、買い手の希望条件は銀行ローンを付けての購入。

問題ありき不動産

 銀行ローンをつけるため書類をチェックしてもらったところ、次のような問題点が見つかった。
 土地は農業地として登記されていて、家屋が登記簿に記載されていない。この問題を解決しなければ売却不可能。活字にすれば簡単に思えるが、ハンガリー語を理解できない筆者にはクリアする能力はない。幸いにも友人とチョメル市に住む不動産屋の担当者が奔走して、問題を順次解決してくれ、何とか売買契約にこぎつけることができた。この間3カ月以上、気が重い毎日だった。
 ハンガリーでは本来、外国人が農業地を買うことができないと聞いているが、筆者の場合は何故かそのケースに当てはまらなかった。購入した時、売買契約書を作成した弁護士が裏道を知っていたとしか思えない。また登記されていない家屋に12年も住むことができ、しかも正式な滞在許可証を取れたのも、今から考えると不思議なことであり冷や汗ものだった。
 農業地を市街地・別荘地に登録する作業は比較的簡単に済んだ。問題は家屋を登記簿に載せる作業だった。この作業は多くの労力と費用が掛かった。家屋はハンガリーがEU加盟前に建てられたもので、前述したように登記簿に登載されていなかった。前のオーナーから渡された図面の家屋は実測したものより小さく書かれており、先ず正確な図面作りから始まった。新築の家を建てるための図面作成と同じ労力が必要だった。また登記簿に載せるためには家屋がEUの定める安全基準を満たしていなければならなかった。具体的には二か所に新たに換気坑を付けることが要求された。居間にある暖炉の改良も要求された。長い煉瓦製の煙突の中にスティール製の煙突を通す作業だった。工事の前に検査官のチェックがあり、実際の工事の後、検査官の再チェックを受けてOKが出たのは作業を始めて2ヶ月後のことだった。
 全てが整って、登記簿に載せる作業が最後のステップ。この作業も友人と不動産屋の担当者が作業を進めてくれた。唯一つ筆者が役に立ったことがある。それはチョメル市の市長と副市長が顔見知りであったため、市の作業期間が大幅に短縮できたことである。
 チョメル市とグドゥル県から最終の許可が出たのは12月の中旬。作業を始めて約3カ月のことだった。12月19日に待望の売買契約ができ、29日の日本への帰国便に滑り込みセーフで何とか日本に帰国できた。

友達は宝

 ハンガリー語を話せない筆者が帰国にあたって不動産を処分できたのは全て友人のお陰。日本語、ハンガリー語に堪能な彼なしには今回の不動産の売却はできなかっただろう。
 ハンガリー14年の生活が大過なく楽しく過ごせたのは多くの友人が支えてくれたからだ。コンピューターやインターネットのトラブル、テレビや電話のセッティングやトラブル、医者や歯医者の相談、その他日常の数々のトラブルを解決してもらったからだ。携帯電話を通して通訳をお願いしたことも数知れない。この場を借りてお礼を申し上げたい。
 マエストロ小林研一郎、左手のピアニスト館野泉、リスト音楽院の教授のヴァイオリニストV・サバディなどの著名な音楽家と知り合えたのも、ハンガリー生活での貴重な経験だった。特にマエストロ小林との関わりは日本では経験できないこと。演奏会の追っかけをし、食事を一緒にさせていただいたこともある。ゴルフを一緒にプレーしたのも思い出深い。そんな機会を与えてくださった関係者に敬意を表したい。
 ハンガリーのオーケストラは技術的に世界のトップクラスかと思うがそのメンバーと知り合えたのもハンガリー生活の彩りになった。安い団員チケットを斡旋して頂き、一流のオーケストラの音楽を楽しめたのは何とも贅沢な話。メンバーでなければ知らない内輪話もきかせてもらった。
 テニスを通して多くの仲間もできた。日本ではなじみの薄いクレーコートでプレーをし、息子や娘と同じ年頃の仲間と遊べたのは、精神的にも肉体的にも健康で過ごせた秘訣だったかも知れない。ウイーンのテニス仲間とプレーした折、マエストロ小澤征爾と記念写真を撮ったことも思い出に残る。ドイツにも多くの友人ができた。特にノイマルクト、ニュルンベルグ、ミュンヘンの友人宅を基地に美術館巡りは楽しいものだった。
 多くの人と知り合えてお陰で日本しか知らなかった世界が大きく広がった14年間であった。まさに「友達は宝」である。

なぜハンガリー?

 『サンデー毎日』「365日が海外旅行」を読んで始めたハンガリーの田舎暮らし生活だった。「年金で豊な老後生活」を送りたいという思いは50歳頃、会社の定年10年ほど前から考えていたこと。財産も蓄えも十分でないから物価高な日本ではとても年金で豊かには過ごせない。物価の安い所で生活するしか方法はないと発想の転換をした。
 当時「シルバーコロンビア計画」なる構想が厚生省から出され、多くの海外移住、不動産投資のセミナーが開かれており、それを参考にした記憶も残る。候補地として挙げた東南アジア、オーストラリア、ハワイなど等は確かに自然には恵まれ、物価は安いが、歴史は浅く、音楽会、美術館などの芸術面などは満足できる環境ではない。
 仕事で知り合ったハンガリー人夫妻と交流を始めたのがハンガリー移住のきっかけになった。ハンガリーを何度か訪ねるうちにハンガリーの音楽、ワインの魅力にはまり、物価の安さ、オーストリアなど近隣諸国に簡単にアクセスできるロケーションのよさなどがハンガリーに居を定める決め手となった。
 千葉県にあった自宅を処分して、ブダペストに隣接するチョメルに900㎡の敷地と150㎡の建物を取得したのは2002年4月。ブダペストを一望する庭にはリンゴ、ナシ、サクランボ、サワーチェリー、ブドウ、桃、プラムなどがあり5月下旬から10月中旬までは取りたての果物が食卓を飾った。サクランボ、リンゴの収穫期にはブダペスト在住の親子をサクランボ狩り、リンゴ狩りに招くのが恒例なイベントだった。
 ハンガリー以外の国を訪ねる機会は多く、楽しみでもあった。陸続きの隣国に簡単に車で行けたのはハンガリーの立地条件が良かったからで、帰国前の10年間でドライブした距離は約23万キロだった。
 景色や街を楽しみ、歴史的建造物に接し、美術館、博物館を訪れ、一流のオーケストラやオペラも楽しめた。アムステルダムの国立美術館、ゴッホ美術館、ハーグのマウリッツハイス美術館など質の高い美術館のあるオランダを旅する機会がなかったのは心残りでであった。
 2014年12月29日ブダペスト空港から日本に帰国。群馬県草津町のリゾートマンションで日本での生活を始めた。

なぜ草津?

 ハンガリーの不動産の処分と並行して日本での住居探しも重要な帰国作業。
 名古屋市、千葉県流山市、長野県原村、諏訪市、佐久市、群馬県草津町など筆者と妻に所縁の町や市を候補に上げた。日本帰国後は一戸建てでなくマンションに住むことにしていた。インターネットの空き家情報は大いに役立った。老人医療が行き届いている原村、諏訪市、佐久市には手ごろな空き家が見つからず、これらの街に住むことは断念せざるを得なかった。名古屋市、流山市は長年住んだこともあり、友人も多いので住み易い所だが、夏のむし暑さは耐え難いものがある。
 草津町には流山市在住の頃よく訪れたことがある。妻の友人のリゾートマンションを貸してもらったり、友人と宿泊しながらのゴルフのプレーに訪れたり、筆者の実家のある長野県山ノ内町を訪ねた時立ち寄った場所でもあった。白根山の恵まれた自然は大きな魅力である。日本観光新聞社主催の「にっぽんの温泉100選ランキング」で12年連続第1位に評価されたように、草津は質、量とも日本有数の温泉である。
 住居のマンション探しはインターネットを通して行った。幸いなことに長男夫妻が長野県軽井沢町に住んでおりマンション探しや改築工事のために足繁く草津町に足を運んでくれた。お陰で年末日本に到着のその日から新しい住居で生活できた。
 立地条件が極めて良く、毎日の生活には車なしで生活できる。町役場、図書館、バスセンター、2軒あるスーパーマーケット、町営プール、数ある温泉施設は全て徒歩圏内。草津町のシンボル湯畑までは徒歩10分の距離である。
 春の山菜とり、夏のハイキング、テニス、秋のキノコ狩り、冬のスキーなどこれからが楽しみ。夏の音楽祭にはどんな音楽家が招待されるのかも興味が湧く。
 機会がありましたら是非訪ねてみてください。

(こまつ・ひろふみ)