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ハンガリー赤泥流出事故の背景と教訓
家田 修

 
日本のマスク支援
  今年の10月4日、大量の赤泥が町を襲う衝撃的な映像が世界中のメディアで流れました。日本でも数日間はこの事件がテレビや新聞で取り上げられましたが、その後、全く続報がありません。欧米メディアも同様です。メキシコ湾での海底油田事故でさえ、流出が止まった後はどのメディアも無言です。この二つは今年起きた世界の二大環境汚染事故だと思いますが、奇しくも、流出量がいずれも70万立法メートル程度で、ほぼ同じでした。メキシコ湾で2カ月以上かかって流出した量が、アイカでは瞬時に町や村を襲ったわけです。
  以下は現地調査等をもとにした報告ですが、まず記しておきたいのは、事故という不幸な事態の中で、被災者だけでなく、私達日本人をも勇気づけた話は、日本からの災害支援が的確に行われたことです。去る11月23日に岐阜県ハンガリー友好協会と岐阜ライオンズクラブが42万個の防塵マスクをヴェスプレーム県に寄贈しました。実際には42万個のうち第一弾として航空便で届けられた9万個が現地に運ばれ、残り33万個は船便で年末に届く予定です。ハンガリーに進出している日本企業(ブリヂストン、デンソー、イビデン、ミツバ、NWI社、ソニー、大豊工業)からも1000万フォリントの義捐金が被災者に贈られました。さらに大阪大学でハンガリー語を学ぶ学生が自主的に街頭に立ち、市民から寄付を募って赤十字に寄付金を寄贈したことを、阪大の鈴木宏和教授から聞きました。私の息子も33万個のマスク輸送を安価で引き受けてくれる船会社を見つけてきました。
  ハンガリーは2004年にEUに加盟し、日本政府の援助対象国から外れたため、今回のような災害が起こっても日本大使館としては動きようがなく、今回は日本大使館に来た現地からのマスク支援要請が、日本ハンガリー友好協会理事長である田中義具元駐ハンガリー日本大使を経由して、岐阜県ハンガリー友好協会に届き、民間外交としてマスクの支援が行われた次第です。官民の連携がうまく機能したことを、事故直後に日本支援の話を現場関係者に伝え、日本の支援関係者には現地情報を伝えた者として、心から喜んでいます。
 
事故の経過
  今回の赤泥流出事故の背景と教訓ですが、まず、事故そのものの経過を簡単にまとめます。事故を起こしたのは「ハンガリーアルミ社(正式には「ハンガリーアルミニウム製造販売株式会社」)で、事故現場はヴェスプレーム県アイカ市にある同社所有のアルミナ製造工場付属赤泥貯蔵池です。この貯蔵池は周囲2km以上、高さ30-40mの巨大建造物です。
  赤泥はアルミナ製造過程で生れる産業廃棄物で、今回流出した赤泥の主成分はハンガリー科学アカデミーの調査によると、酸化鉄33―40%、酸化アルミニウム15―19%、二酸化ケイ素10―15%、酸化カルシウム3―9%、二酸化チタン4―6%、酸化ナトリウム7―11%であり、そのほかに微量の五酸化バナジウム、五酸化リン、二酸化炭素、三酸化硫黄、酸化マグネシウム、フッ素、炭素が含まれていました。赤泥は完全に固体化すると無害だとされますが、今回は大量の水と混じった状態で流出し、PHで最高値の14に迫り、極めて危険な強アルカリ状態でした。事故による死者は10名、負傷者は120名以上で、事故現場をみると、家屋の中まで1メートル以上の赤泥の跡が残っており、もしこの事故が夜中だったら、被害者の数は数倍どころか、数十倍にもなっていたでしょう。事故が日中だったことは本当に不幸中の幸いでした。
  事故直後、赤泥は一瞬にしてトルナ川沿いの生態系を破壊し、さらにマルツァル川に流入し、その流域70kmほどを汚染しました。赤泥がラーバ川へ、さらにはドナウ川本流にまで達すれば、下流諸国そして黒海にまで汚染が広がるとの懸念が強まりました。ハンガリー政府は非常事態を宣言し、マルツァル川に少なくとも数千トンの石膏を投入し、ラーバ川との合流点で大量の中和剤を散布しました。これでドナウ川本流に高PH値の赤泥が流れ込むことは食い止めましたが、PH値が下がったとはいえ、ドナウ川本流に大量の赤泥が流入したのも事実であり、長期的な環境への影響は、今後の調査をまたなければなりません。ブダペスト市内のドナウ川で大量の魚の死骸が浮かんだとの報告もありますが、公式には、支流で死んだ魚が流れ着いたと説明されています。
  他方、赤泥の津波に襲われた二つの町、コロンタールとデヴェチェルでは600戸以上が被害を受け、建て替えないし代替地への転居が始まっています。今一番の問題は700ヘクタールを越す農地や森林を覆った赤泥が乾燥して粉塵化し、大気を汚染し始めていることです。ハンガリー衛生局は赤泥粉塵を吸うと呼吸器に健康被害を起こす恐れがあると警告し、マスクの使用を促しています。農地などの赤泥除去は来年の6月頃までかかるとされ、それまでの間、高品質の防塵マスクが必要です。マスクは毎日取り換える必要があり、近隣の住民すべてに配布するには十万個単位で確保しなければならず、国内や欧州で調達するのは困難とのことです。このためマスク文化を持つ日本に支援が求められたという訳です。
 
事故の原因
  直接の事故原因は貯蔵池外壁の一部が地盤の緩みで崩壊したことにありますが、責任を問われた会社幹部は会見で、「きちんと法律を遵守して管理を行ってきた」とし、会社側に過失責任はないと言い切りました。加えて「今年の降雨量は昨年の3倍もあり、それが貯蔵池の赤泥の上に溜まっていた」と述べ、事故は天災だったと説明しました。さらに「赤泥はEU基準に照らせば、有害物質ではない」とし、国民から強い反発を買いました。
  さらに、貯蔵池外壁には前から亀裂があったのに会社は放置したなどの内部告発も現れ、他方で監督官庁の検査体制が甘かったという指摘もあり、オルバーン首相は現地視察で、「この壁の崩壊が瞬時のことだけで起きたとは思われない。工場側、そして監督官庁が何故気づかなかったのか、その原因を究明する」と発言しました。実際にもすぐに検察当局が事故原因の究明に乗り出し、10月11日にはハンガリーアルミ最高経営責任者の身柄を拘束しましたが、長期拘留の「正当な理由」は見つからず、すぐに釈放されました。
 
EU加盟と赤泥、そして民営化の闇
  ハンガリーはEU加盟の際、環境分野では厳しいEU基準の即時導入は困難との判断から、さまざまな猶予措置を求めました。しかし今回の事故はこの見方が一面的だったことを明らかにしました。赤泥はEU加盟前のハンガリー国内法によれば有害廃棄物だったのです。それがEU基準に合わせて無害な産業廃棄物に認定し直されたのです。しかしハンガリー政府は今回の事故対応のなかで、「赤泥は2000年第25号法の第3条第1項bd及びcに照らして有害物質」であるとする声明を発表し、この認定にあわせて対策を立てるとしました。企業の事故責任を問う場合、赤泥が有害物質であるかどうかは大きな争点ですが、EU基準とハンガリー法体系の二重性がどう影響を及ぼすのか、今回の事故責任究明の鍵となるのではないかと思います。
  ハンガリーアルミ社は資本金30億フォリント、従業員1100名、EUでのアルミナ市場占有率12%(自社広報による)を誇るハンガリーを代表する大企業です。しかし株式は非上場で、事実上、三名の個人が所有し、その三人はいずれも数百億フォリントの資産を持つ「大富豪」です。彼らは社会主義時代において企業経営陣ないし官僚畑にいた人物、つまり旧体制のエリートで、1990年代の社会党ホルン政権下で行われた国有企業民営化の中で巨額の富を築いたハンガリー版「オルガルヒア(新興実業家)」です。2004年から2009年まで社会党政権の首相を務めたジュルチャーニもアルミニウム産業の民営化で資産を蓄えたオルガルヒアの一人で、ジュルチャーニはEU加盟交渉が最終段階にあった2002年から社会党政権の中枢にあり、EU基準に合わせた赤泥「無害化」指定に影響力を行使したといわれています。また今回事故を起こしたアイカのアルミナ工場の払い下げでは、赤泥貯蔵池に対して30億フォリントに上る設備投資を行う約束と引き換えに、払い下げ価格がタダ同然の1000万フォリントに設定されたと言われていますが、11月にオルバーン政権はアルミ産業の民営化文書を公開しましたので、近いうちに民営化にまつわる闇の部分が解明されるはずです。
  今回の事故直後、ハンガリー政府はEUに専門調査団の派遣を要請しました。それに基づきEUは「監視情報センターMonitoringand Information Centre」から専門家6名を派遣し、10月16日に調査結果が発表されました。それによると「飲み水には全く問題がなく、空気中の粉塵は健康被害に対する許容量を上回っていない」ことになりました。わずか数日間の計測値だけに基づいてこのような結論を出すことは極めて不自然です。当然、ハンガリー政府はこの結果に納得できず、「災害の撤去・復旧作業に際して防災本部はハンガリー科学アカデミーが行った調査結果ないし同アカデミーが認めた調査結果のみに基づいて行動する」と反論しました。実際、11月に入ってハンガリー側の調査結果が公表されると、水質検査では汚染は認められないものの、大気汚染は「デヴェチェルでのすべての観測地点及びコロンタールでの観測地点において、衛生許容基準を8-24%上回った」ことが判明しました。ハンガリーの専門家が恐れていたことが現実となった訳です。
  EU議会は先の調査団の報告書に基づき、10月19日にハンガリー赤泥事故を議題として取り上げ、審議を行いました。そこでは赤泥を危険物質に指定すべきだとの意見も出ましたが、結局、既存法規の修正は不要で、適正な運用で対応できるというEU委員の答弁で審議は終了しました。確かにEUの対応は専門委員の派遣でも、EU議会審議でも迅速でしたが、あまりにも迅速すぎて、最初から結論ありきではなかったかと思います。
 
赤泥の再利用
  今年の3月にアルミナ関係国の国際会議がバンクーバーで開催され、「ボーキサイト残渣(赤泥)はアルミナ生産量1トン当たり約1.5〜2.5トン発生し、高アルカリ性であり少量または微量の重金属と放射性核種に関連した環境リスクがある。赤泥管理にかかわる技術的、経済的に健全なオプションを開発する」との宣言が出されたばかりでした。アルミナは欧州では斜陽産業ですが、アジア太平洋圏は世界的なアルミナ生産地域です。なかでも中国は世界生産の30%を占める世界最大の生産国で、毎年3000万トンの赤泥を生み出しています。
  日本は1970年代の年産160万トン体制から順次後退し、現在は1万トン程度です。赤泥は世界の主流である陸上処理ではなく、海洋投棄で処理してきました。しかし環境保護の立場から見直しを迫られ、2015年までに海洋投棄を全廃する予定です。現在はオーストラリア、インドネシア、ニュージーランド、ベトナムなどで現地との共同事業化によるアルミナ生産に力を入れています。
  ハンガリーでの今回の事故を機に赤泥の管理体制見直しが急務となりましたが、日本は環境保護の立場からアルミナ生産を輸入に切り替えた以上、世界的な見地から赤泥の管理に責任を負う立場になりました。ハンガリーでは再利用のための総合的研究も進んでおり、日本にも研究の蓄積があります。赤泥を厄介者から資源化することは地球規模の課題であり、日本がハンガリーなどと共同して基礎研究や技術開発の一翼を担うことは大きな世界的貢献になると考えます。
  アルミ缶一つを作る度に、その倍の赤泥が生まれている現実があります。
(いえだ・おさむ 北海道大学スラブ研究センター教授)
 
 

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