Topに戻る
 

 
 
 
     
 
追悼文ブ ダペストからのお別れ
 
     
 
 
 
相馬笙子先生を偲んで
佐藤 紀子
 
 訃報は突然やってきました。9月5日、ベルリン自由大学のヨー ロッパ日本語教師会シンポジウム。その会場で、同僚のセーカーチ・アンナさんがかけより、目にいっぱいの涙を溜めて私の耳元で囁きました。「相馬さんが亡 くなった」。一瞬、何を言っているのかわからず、「えっ、何? 何の話?」。アンナさんは小声で「相馬さんが亡くなった」と繰り返すばかり。「どうして? 何が原因?」、「わからない!亡くなったという知らせだけ」。携帯電話を切っていたため、訃報は日本のご遺族や私の家族からではなく、ハンガリー日本語教 師会を経由して私達の元に届きました。わずか1カ月半前の7月、相模大野のマンションに泊まらせていただき、楽しい3日間を相馬先生と過ごしたばかりの私 には、その知らせは信じられませんでした。
  本当に突然のことでした。9月4日の夕方、夕食を作っていた最中に気分が悪くなり、ソファーに横になったまま亡くなられたとのこと。74歳でした。49日 が過ぎた今でも、まだ半分信じられない状況です。あまりにも急に、そしてあまりにも早く遠い世界へ旅立たれてしまいました。 
  私達先生をよく知る者にとっては「相馬さん」、ハンガリーの友人、知人にとっては「ショウコ」と親しみを込めて呼ばれていた相馬笙子先生は、長年東京都の 小学校で音楽教育に携わってこられる中、合唱指導のためにコダーイ・システムを勉強しようとハンガリーへ何度か足を運ばれ、定年退職後の1980年代後半 にブダペストへ単身移住。老後を海外で過ごすことがまだ珍しかった時代です。しかし、昨年、健康に不安を覚え、日本へ帰国されていました。ハンガリーで は、ブダペスト日本人補習校で教鞭を取った後、長くセゲド大学で日本語を教えられていたほか、ケストヘイにある人生の樹学園のサポートなど、ボランティア 活動をなさっていました。
  特に、私の所属するNPOハンガリー日本語教師会(MJOT)にとって相馬先生は、なくてはならない存在でした。先生は、2001年にMJOTが設立され た際の設立メンバーの一人。2002年にブダペスト商科大学で開かれたヨーロッパ日本語教育シンポジウムの際には実行委員、長年の運営委員、2005〜 2006年度には会長職にも就かれ、教師会のために尽力されていました。
  その中でもとりわけ教師会発行の日本語・ハンガリー語語彙集に関しては、執筆者から集めた原稿を編集委員や校正者といっしょにご自宅のパソコンでコツコツ と編集し、出版後は在庫管理、販売、会計など、何から何まで雑用一切を全て一人で引き受けて下さいました。
  そんな相馬先生を一言で言い表すとすれば、圧倒的な存在感です。学歴も収入も地位も意味がなく、いざという時には、自分が正しいと信じることを勇気を持っ て発言される稀有な方でした。私達会員はいつも先生に安心感をもらい、先生が応援してくれるなら、少々無理な事業でもできそうだと思わせてしまう威力、 オーラの持ち主でした。
  同時に、先生は大変細やかな心配りのひとでした。教師会への度々の寄付を始め、先生の手料理による「おいしい」運営委員会や大人数の研修会をブダペストが 一望に見渡せる自宅のサロンで開かせていただいたことが何度あったことでしょう。
  私が初めて「相馬さん」とお会いしたのは、かれこれ20年以上も前。以来家族ぐるみでお付き合いさせていただきました。少々怖そうな相馬先生でしたが、子 供達には頼りがいのある存在。10年ほど前に亡くなった実家の母にとっては、ハンガリーでの良き友でした。母が亡くなった後は、相馬先生は私の愚痴のこぼ し相手。決断に迷った時など、適切な助言で励まし支えてくださいました。大胆な発想、論理的な考え方、そしてどんな人にもおもねらない、凛とした生き方と 態度にあこがれさえ感じました。
  相馬先生を語るとき、ファッションに触れないわけにはいきません。鮮やかなカラーメッシュの入った茶髪、爪ごとに色が違ったマニキュア、大振りな指輪やア クセサリー、大胆な色柄の服、おしゃれな帽子など、普通の日本人ならとても似合わないコーディネートが相馬先生にはぴったり。型にはまらない先生の性格そ のままでした。
  たばこをくゆらせながらはすに構えて話をする姿には、単刀直入の物言いとあいまって、姉御の雰囲気が漂い、初対面の方は幾分の恐怖感を覚えたかもしれませ ん。しかし、実は心優しい方でした。亡くなる少し前に日本からメールをいただき、ハンガリー語で「もうアンナと紀子にご飯を食べさせてあげられないのが寂 しい」と書いてこられたのが、思えば最後の便りでした。夕暮れ近く職場で終わらない仕事を前に、同僚のセーカーチ・アンナさんと二人で「疲れたなあ」とた め息をついていると、「晩御飯でも食べに来ない?」とタイムリーな電話がかかってきて、夜景もおかずにして相馬宅で晩ご飯をご馳走になり、元気というお土 産ももらって帰宅したことが思い出されます。
  もうその心優しい姉御の笑顔には会えません。しかし、かけがえのない友人、先輩、メンターを失ってしまったという喪失感とともに、未だに半信半疑な状態が 続いているのは、相馬さんが肉体的にはあの世に旅立たれても、存在感という点ではこの世に強烈な刻印を残して逝かれた証かもしれません。では、相馬さんは 私たちに何を残して逝かれたのか、相馬さんの存在感とは何だったのか、それを考える日々ですが、一つ確かなことは、人間は誰しも、思い出す人がいるかぎ り、肉体は滅びても精神は滅びないということです。その思い出す人で私はあり続けたいと思います。
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.