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追悼:佐藤経明教授(横浜市立大学名誉教授)
盛田 常夫

 佐藤経明先生がお亡くなりなった。享年89歳であった。

 佐藤先生は東大経済学部を卒業され、都立商科短期大学を経て、1970年からは横浜市立大学に勤務され、以後1988年に定年退職されるまで奉職された。その後は日大経済学部で教鞭をとられ、1995年に日大も定年退職された。

 社会主義研究分野における佐藤先生の存在は非常にユニークなもので、東大講座派の教えを受けたにもかかわらず、思考はきわめて柔軟で、西欧の社会民主主義者に近いものをもっておられた。先生の分析は既成の理論から出発するのではなく、ソ連・東欧を実際に訪問した経験に裏付けられた直観に近い感覚にもとづいていた。西欧の社会主義研究家の知己が多く、日本では珍しい西欧とソ連・東欧の双方の実情や研究に詳しい研究者であり社会観察者であった。

 冷戦終焉まで、日本の社会主義研究は理論やイデオロギー偏重の時代が長く続き、現実から出発して分析する研究姿勢が欠如していた。とくに、東大講座派が事実上消滅した後の社会主義研究は、関東の一橋大学経済研究所を中心としたグループと関西の京都大学を中心としたグループに二分されてきた。講座派亡き後の社会主義研究の理論的「正統派」は関西に移り、関東の一橋大学ではイデオロギーにとらわれない社会主義研究が盛んになっていった。

 こうした東西の狭間にあって、佐藤先生は一橋大学の野々村一雄、宮鍋幟、岡稔等のソ連研究者たちと交流を深められた。とくに岡稔教授とは同年代ということもあり、その真摯なソ連研究に非常に期待されていた。岡教授は1960年代のソ連の論争を精緻に追跡され、ソ連における商品生産の可能性について熟考されていた。しかし、1973年に肺がんが発見され、間もなく49歳の若さで他界された。佐藤先生のみならず、多くの研究者が岡教授の夭折を惜しんだ。当時、私は大学院生だったが、岡先生の著作を知らずにいた。しかし、岡教授を失った損失の大きさは、恩師関恒義の落胆した様子から十分に伺い知ることができた。佐藤先生も事あるごとに、岡先生の逝去を惜しまれていた。

 こういう経緯から、佐藤先生は引き続き、一橋大学出身の若い研究者たちとの繋がりを大切にされていた。私が初めて佐藤先生と懇意にさせていただいたのは、ハンガリー留学から戻ってすぐに翻訳出版したチコシュ-ナジ・ベーラ『社会主義と市場』(大月書店、1981年)の書評を依頼したことがきっかけである。佐藤先生は著者のチコシュ-ナジ(当時、ハンガリー価格庁長官)と知己だったこともあり、『週刊エコノミスト』誌の書評で取り上げていただいた。

 こうした縁もあって、1983年1月に法政大学社会学部創設35周年記念講演会にハンガリー人経済学者コルナイ・ヤーノシュを招いた折、佐藤先生に討論者の一人になっていただいた。当時、記念講演会、「不足の経済学」をめぐる討論会(コルナイの友人である宇沢弘文氏が議長)、「ハンガリー・セミナー」の三つの行事を組織したが、佐藤先生はその三つの行事すべてに参加された。

 1986年から87年にかけて、統計研究会の篠原三代平先生と竹内啓先生が主宰された「社会主義経済の改革」をテーマにされた研究会に、私は佐藤先生とともにお招きをいただき、何度もディスカッションする機会が与えられた。

 その後、1988年に私が駐ハンガリー日本大使館の専門調査員として赴任した折、やはりハンガリー新政府の経済政策を支援する国際委員会(ブルーリボンコミション)東京会議(1990年、野村総研共催)に、討論者としてご参加いただいた。

 私は専門調査員を終えて大学へ戻ったが、数か月で大学を辞して、1991年春に野村総研の顧問として再びハンガリーへ赴任した。そこからはメイルを通して、ハンガリーやその周辺国の情報を佐藤先生に送った。民間研究所での私のポストの行く末を心配され、日大を退職される際に、日本に戻る気がないかと、気にかけていただいた。

 2006年にコルナイ・ヤーノシュ『コルナイ・ヤーノシュ自伝』を発刊したが、翻訳原稿を逐次佐藤先生に送り、目を通していただいた。1960年代からハンガリーを知っている先生には、コルナイの詳細な戦後ハンガリーの記述は若き日の思い出を蘇えさせるものになった。翻訳本が刷り上がり、赤坂のレストランで、佐藤先生や久保庭真彰君(一橋大学名誉教授)等と編集者を交えて、小さなお祝いの会を開いた。その写真が手許にある。

 2006年はちょうどハンガリー動乱50年にあたる。この頃、私はハンガリー社会主義成立直後にラーコシ書記長とともに四人組の一人と呼ばれていたファルカシュ・ミハーイの息子ヴラジミールが、体制転換直後におこなった長時間の口述記録が存在するのを知った。ヴラジミールは戦後の公安警察成立時から、盗聴技術としてすべての重要なでっち上げ事件の現場に居合わしている。その口述内容をテーマ毎に解説して、逐次、佐藤先生に送った。社会主義成立からハンガリー動乱にいたる秘密警察の活動が詳細に描かれた貴重な資料である。ライク・ラスロー外相の逮捕・処刑からハンガリー動乱にいたる過程は驚くべき内容に満ちており、ハンガリーにおけるラーコシ独裁確立過程の狂気を肌で感じることができる資料である。その内容の一部は、拙著『ポスト社会主義の政治経済学』(日本評論社、2010年)に記した。戦後の社会主義成立の歴史分析を塗り替えるほどの衝撃をもつ資料である。

 ハンガリー動乱当時、学生時代を過ごした研究者にとって、社会主義を信奉するとしないにかかわらず、動乱勃発は衝撃的な出来事であった。当時の進歩的知識人たちはこれを「反革命」として、ソ連の主張に同調することしかできなかった。何故にハンガリー動乱が勃発したか、日本の研究者にはそれを分析する力も環境もなかった。ヴラジミールの口頭記述から、ハンガリーにおけるスターリン型権力の確立とそれに伴う暴力的なでっち上げ事件の真実が明々白々になった。こうやって、歴史の謎が一つずつ解明されていく。

 ライク逮捕に果たしたカーダールの役割や、動乱の最中、ソ連共産党がカーダールを新しい書記長に任命したプロセスも明らかになった。ソ連軍に連行されてブダペストの軍事飛行場からモスクワに連れられ、翌日にはクレムリンの政治局会議に立つことになったカーダールが、次第にフルシチョフの理解を得て、独自性を発揮していく過程も明らかになった。佐藤先生がハンガリーを最初に訪問したのは、カーダール時代が本格的に始まった時期である。カーダールへの佐藤先生の評価は高く、ハンガリーには他に選択肢がなかったという確信は変わらなかった。

 佐藤先生は市場をベースにした西欧の社会民主主義が持続可能なモデルを考えていらっしゃったと思う。その意味で、市場を否定したソ連型の社会主義の崩壊に驚くべきものはなかった。しかし、その社会的大変動にたいして、現代の若い研究者がそのダイナミズムを分析するのではなく、たんたんと論文のテーマになりそうな瑣末事象を追いかけ、論文製造に勤しんでいる昨今の学会状況に落胆しておられた。「いかなる心象をもってそのテーマを追いかけているのか、不思議でならない」という嘆息を何度も聞いた。これは何も比較経済体制学会だけの問題ではないと思うが、現代の学問研究が陥りやすい陥穽である。

 
   親子ほどの歳の差があり、かつ師弟関係にない私たちは、研究以外の場で交流する機会は少なかったが、1990年代から今まで、日常的にメイルで情報交換した。それは共通するクラシック音楽でも同じであった。佐藤先生は実にクラシック音楽に詳しく、一流の音楽家の演奏会は逃さないほどの熱狂的なファンだった。名の知れない音楽家のコンサートを紹介した時などは、「もうそれほど長く生きられないのだから、二流三流の価値のものに無駄に時間を使いたくない」と鑑賞を断られたことがあった。
 

 それでも、若手のピアニスト金子三勇士君を交えて昼食をとり、佐藤先生だけでなく、同じくクラシックファンの倉林義正先生に、三勇士君を紹介したことがあった。旧制高校時代から大学の結核療養時代を通して、佐藤先生は語学を勉強され、ドイツ語、英語、ロシア語に堪能だった。さすがに旧制高校の教育は違うと思ったものだ。とくに、文法がしっかりしており、英文論文を書くことに苦労されなかった。ただし、発音はお世辞にも良いとは言えなかったが、研究者とはしっかりとコミュニケートされていた。こういう知識人はもう日本では教育されないのだろうか。

 佐藤先生から胃がんの手術をすると聞かされたのは、2012年の出版記念会でお会いした時だ。私がハンガリー人研究者と出版した『腫瘍温熱療法:オンコサーミア』(2012年、日本評論社)の出版記念会が東京のハンガリー大使館で開かれた折、佐藤先生にもご参加いただいた。このときは、いつものように冗談を飛ばされ、用意された食事を堪能されていた。しかし、その時にはすでに、胃の全摘手術の日程が組まれていたようだ。

 佐藤先生の古い友人たちからは、手術や民間療法にたいする種々の「忠告」や助言が寄せられたようで、一々返事していられないとこぼされていた。私は「87歳の年齢で、胃を全摘する意味がありますか。温熱療法などで経過を見たらどうですか」と申し上げたが、すでに堅く決心されていた。私が今推進している温熱療法を受けられる病院が日本になかったこともあって、強く意見することは差し控えた。全摘手術の後に抗がん剤治療を受けるというメイルがあった時も、「その歳で癌細胞が急増することはないのだから、何も生活の質を落とす治療を受ける必要はないのでは」と申し上げたが、「いや、私の癌細胞はもしかして、非常に若くて元気が良いかもしれないので」とおっしゃった。「200歳まで生きようとするならまだしも、5年10年しかない命を苦しめる必要があるのだろうか」と思ったが、それは言えなかった。

 術後、渋谷でお昼をご一緒したが、もちろん先生は固形物を食べることができず、注文されたスープにほとんど手を付けられなかった。先生の体は胃の全摘手術から2年しかもたなかった。もし手術を回避して何もせず、好きなものを食べ、生活の質を維持できれば、もう少し長い時間生きることができたのではないかと思うが、これは結果論。本人が納得されて受けた手術だから、他人が口出しできることではない。

 先日、比較経済体制学会から佐藤先生死去の訃報が伝えられた。そこには、「胃がんのため死去」とあった。しかし、すでにがんは除去されているのだから、この記述はおかしいと思う。正確には、「胃全摘手術の後、次第に体調を崩し、生命を維持することができなくなった」というのが正しい。ただし、現代の医学はこのように記述することを排除している。手術は常に適切で、その後の副作用はすべて原発の腫瘍が原因という立場をとっている。医療は個人個人の年齢や余生の在り方に即した治療でなければならず、たんに「がん」という異物を処理するものでないはずだ。89歳まで生きることができれば死亡原因など二の次だが、何のための手術だったのか、私はこの疑念を拭うことはできない。

 いずれ天国で、佐藤先生から手術の総括をお聞きしたいものだ。「手術以外の選択肢はなかった」とおっしゃるかもしれないが。

 
(2014年8月 盛田 常夫)
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.