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私が見てきたハンガ リーのテニス
盛田 常夫

 

 今では想像もつかないだろうが、1970年代から80年代にかけて、ハンガリーのテニス選手は欧州でもトッ プレベルにあった。タローツィ・バラージュ、マハーン・ロベルト、スーケ・ピーテル、ベニック・ヤーノシュという面々がハンガリーを代表する選手で、彼ら はドイツ、スペイン、ユーゴスラビアなどにテニスコーチの出稼ぎにでかけることができる時代だった。当時はまだ、ドイツでもテニスは人気がなく、ソ連にも これといった選手がいなかった。

 
 この時代のハンガリーのテニスは典型的なクラシック・スタイル で、オーストラリアのローズウォールを手本とするようなフォアはドライヴ、バックはスライスの綺麗なテニス。現在ハンガリーの女子チームの監督をしている マハーン・ロベルトが1981年に日本へ観光にやってきた時に、その年の学生王座をとった法政大学テニス部に連れて行き、個人戦準優勝の村田有季彦選手と 対戦してもらった。持参したラケットのガットが切れたので、マハーンは学生から借りたラケットを手にして、最初のレシーヴ・ゲームこそ失ったが、後は6 ゲームを簡単に連取した。「今まで見たこともないようなバックハンドのスライスが、手許で伸びてくるので非常に打ちづらかった」というのが、村田君の感想 だった。マハーンは日本で言えば神和住、坂井や九鬼の世代の選手で四大トーナメントにも出場した経験をもち、当時は全盛期を過ぎていたが、まだデ杯選手 だった。今年の全豪決勝でフェデラーに負けたマリーが同じことを話していた。「フェデラーのスライスが低く伸びてくるので、前へ出ることができなかった」 と。
 
 時期は前後するが、1980年1月 に欧州チーム対抗戦Kings Cupがあり、フランス・チームとの試合を見に住商駐在員の飯尾さん(現、大吉店主)の車でジュールへ出かけた。この時のフランスのシングルス・プレー ヤーの1人が、すでに引退してシニアの大会に出ているルコントである。まだ弱冠17歳の少年だった。左利きの彼はコナーズを真似て、両手打ちのバックハン ド、バネを活かした速いサーヴを打っていた。これを迎え撃ったハンガリーの選手がクハルスキー・ゾルターンで、前年のジュニア世界チャンピオン。クハルス キーはこの年のデ杯対スイス戦の後に、ハンガリーに戻ることなく、スイスに留まった。当時の言葉で言えば、亡命である。この後、クハルスキーはスイスのデ 杯選手になり、現役引退後はスイスを拠点としながらドイツのアンケ・フーバー、アメリカのカプリアティ、セルビアのイヴァノヴィッチ、ハンガリーのサー ヴァイのコーチを務めてきた。
  ハンガリー選手の中で、もっとも輝かしいキャリアを築いたのは、タローツィ・バラージュである。シングルスでは1982年に世界ランク13位にまで上り詰 めた。ダブルスでは全仏とウィンブルドンで優勝し、1985年にはダブルス世界ランク3位にランクインした。彼のダブルス・パートナーが、スイスのハイン ツ・ギュントハルト。1981年の全日本オープンでタローツィは単複とも優勝したが、その時のパートナーもギュントハルトである。当時、タローツィの試合 を見るために、田園コロシアムのコートにでかけた。
  タローツィはクロアチアのイワニセヴィッチを発掘し、一度だけ、師弟でダブルス戦に出場したが、準優勝に終わった(1990年ベルギー室内)。ギュントハ ルトは長らくシュテフィ・グラフのコーチを務めていた。ギュントハルトには2歳年上のテニス選手、マルクス・ギュントハルトがおり、この兄弟はスイスのデ 杯選手として活躍した。マルクスの方は事業家として成功し、各種のプロテニストーナメントの主催を委任されている。
  このようなテニス環境をもつスイスで、フェデラーも育ったのである。
 
 テレビで偶然に観た今年のウィンブルドン 大会の招待ダブルスで、ハンガリーのテメシュヴァーリとチェコのスコヴァの往年の44歳と45歳のプレーヤーが、ヒンギスとクルニコヴァの15歳も年下のペアと戦っていた。テメシュヴァーリの状態はかなり良く、この ゲームに準備してきたことが分かったが、14個のグランドスラム・タイトルをもつスコヴァはロブとドロップショットだけでベストにほど遠い状態だった。
  テメシュヴァーリを最初に観たのは1979年のブダペスト。当時まだ13歳の少女だった。両親がバスケットボール選手で、父親がテニスを教えていた。1球 ごとにスタンドで観戦する父親が大声で指示するものだから、コート上のアンドレアが言い返すという激しい親子の情景を目の当たりにした。1981年に東京 で開催されたフェデレーションカップにハンガリー代表として弱冠15歳で国際デビューした。この時は足を痛めて途中棄権したが、夜は銀座の焼き肉店で慰め たのを覚えている。
  アンドレアはこのデビューを契機に、世界ランキングのトップテンに入り、一躍世界の注目を浴びたが、父親との確執や怪我、コーチ不在が影響して、高いラン キングを保持することができなかった。父親は今でも2区のVASASコートで素人相手のテニスコーチをしている。テレビのゲームを見る限り、アンドレアは それなりのトレーニングを積んでいるようだ。185cmの上背、80kgはあろうかと思われる体格だが、軽やかに体を動かしていた。
 
 スポーツの伝統は受け継がれる。そ れは多分、優れたコーチによるノウハウの伝承があると考えられる。選手を育成する教育手法が受け継がれるからだ。テニスは昔からチェコが強かったのも優れ たコーチがいたから。ハンガリーもそこそこだったが、いつもチェコの後塵を拝していた。現在、女子テニスは3名ほど世界ランク百位以内に入っているが、 トップテンへの躍進を予想されたサーヴァイ・アーグネシュは30位前後で低迷している。男子テニスのレベル低下はひどいものがある。1950年代に世界を 席巻したサッカーも長期低迷を続けているし、五輪連覇を達成している水球もライヴァルの追い上げが急である。スポーツ大国だったハンガリーの面影が見られ ないのは寂しい。資金不足もあろうが、選手育成のシステムに問題があるのではないだろうか。
 
 

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