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自 転車inハンガリー
江渕 泰久

 

 ハンガリーに来て4度目の夏を迎える。近頃、サイクリストの姿をよく目にする。一昨年よりも昨年、昨年より も今年とその数は増えている気がする。楽しそうに自転車に乗っている人を見るだけで自分もウキウキしてくる。最近、これまで眠っていた自転車熱がムクムク と体の中で起き始めたことを感じている。

   実は、自 転車熱がぶり返しそうな理由がもう1つがある。この原稿が印刷される頃には明らかになっているだろうが、世界最大の自転車レース、ツール・ド・フランスに 久々に日本人選手が出られる可能性が出てきたのだ。これまでは13年前に1人、おまけの様に出たきりだった。2009年が、野茂の大リーグデビュー、或い は中嶋悟のF1ドライバーデビューの年の様になりそうだ。自分に限らず日本全体で自転車がブレークする予感がある。
 ハンガ リーに来た時、正直言うとそれまで聞いていた「自転車王国・ヨーロッパ」という看板と実態のギャップに少々驚いた。ヨーロッパは自転車と自転車競技が盛ん だと聞いていた。ツール・ド・フランスは、サッカーのワールドカップと同じ位盛り上がっていて、大会開催期間中は誰もが仕事の手を止めてレースの進行に見 入るらしい。車道走行中、後ろの車はサイクリストをリスペクトしてクラクションを鳴らさず、よける様に走ってくれる。アマチュアレースが毎週どこかで開催 され、レース参加者はプロでもないのにサインを求められる。飲み屋では、野球の話に花が咲く様に、おじさんたちがプロロードレースの話題で盛り上がる、な どなど。「ヨーロッパでは自転車は単なる道具でなく、すでに文化の一部になっているのだ」と教わった。
  一方で住み始めた家の周辺。まず自転車ファンが好む自転車屋さんが少ない。車体や部品のラインナップが限られている。置いてあるモノ自体も古い。日本だっ たら5年前にも見かけない品々が陳列棚の中央に並んである。10年前に消滅したチームのロゴが入ったバイクボトル(自転車につける水筒)がケースの中央に あったのにはむしろ微笑んでしまった。ブダペストでは車道を走ると日本以上に後ろの車からクラクションを鳴らされるし、会社までの70km、毎日自動車を 使う生活が始まったこともあって、少しずつ自転車に対する熱が冷めていった。
  ロードバイクの選手は200〜250kmのレースを4〜5時間で走破する。ヨーロッパの美しい都ブダペストとウィーンの250kmの道のりを、ロードバイ クに乗って1日かけて走り切る、という赴任直前にたてたドリームプランも、「こちらのドライバー、特に1号線を走る人たちは運転が乱暴だからとにかくやめ とけ」というハンガリー人の忠告で早々に泡の様に消し飛んでしまった。
  日本にいる頃から、自転車が好きだった。オフロードのマウンテンバイクではなく、タイヤの細い軽量のロードサイクル。このタイプは舗装された道を長距離走 るのに適している。ハンガリー赴任前に住んでいた東京では、重い荷物がない時は、山手線内なら日常の移動にも活用していた。電車や地下鉄の都合で遠回りす る必要も乗り換える手間もない。出発地から目的地までほぼ直線距離で行かれる。「その分疲れるじゃないか」と人からは言われるが、満員電車の人いきれや、 まずい乗り継ぎでイライラ待つことを考えれば、自分の足で距離を稼ぎ、体を包む風を感じながら外を走る方がよっぽど清清しくて気持ちいい。
  街と街の距離や、その高低差を体で感じられることも魅力だ。「ここは案外高台にあるのか」とか「この2つの街は実はこんなに近いのか」などと新しい道を通 る毎に発見があった。
  東京駅の近くにある会社へも片道5kmの道のりを雨の日以外はこれで通っていた。会社に自転車という自分用の「足」があることは非常に便利である。仕事が 遅くなっても終電車を気にする必要がない。昼休み、その日の気分で旨いものを食べたくなると、銀座や神田辺りまでぶらりと出没できる。往復を含めても昼休 みの1時間があれば十分だ。春や秋には、墨田川にサンドウィッチを持参して川べりでのんびり過ごすことも何度か。季節ごとに風景の移り変わりを発見するの はささやかな楽しみだった。
  いろんな道を通り、それまで出発地と目的地がそれぞれ点でのみ認識されていたのが、道中も体で感じることによって線になる。そしてそれらが積み重なること で、生活圏内のいくつもの街が頭の中で面としてイメージできる様に繋がってきた。
  最近ハンガリー人の気質が少しずつわかってきた。自転車に限らず他にも通ずることだが、彼らはスポーツをする場合、行為そのものを、自分のペースで 100%楽しむ。道具の性能やブランドなどあまり拘らない。格好や見た目も二の次である。激しく自分を追い込む様な練習をする人の割合が日本よりも低い様 に感じる。まずスタイルやフォームから入り、目標を立て、それを達成するプロセスにも楽しみを見出す日本人と対象的である。自転車屋の数の少なさが、必ず しもポピュラー度合いと一致しないということに気がついた。目標に縛られず、「天気がいいからみんなでスポーツしよう」という、子供の頃以来忘れていた姿 勢を彼らに思い出させられた。
 
 最近、気 持ちよくのびのびと走られるコースを見つけた。ブダペストから郊外まで50km以上ほとんど信号や大型車両に邪魔されない道がある。プスタを貫く車のない 並木道、いかにもハンガリーらしいクリーム色の一軒屋。その景色を自分の足で走り抜けると、まるでその豪華な景色は主人公の自分のためにある様な気にな る。ハンガリーは美しい国だと改めて思う。それを五感で味わうことができる「自転車」という乗り物もこの国によくマッチする。見直してみると、ブダペスト を少し離れさえすれば日本以上に快適なルートがいくつもありそうだった。
  競技志向のサイクリストは最近の日本の方がやや多いかもしれない。ただ、家族でサイクリングしている数は圧倒的にハンガリーの方が多い。お父さんが、自分 の自転車に補助輪付きの幼児車を連結し、牽引しながら走るという、日本では見かけない光景もこちらではよく目にする。
最近、プロロードレース自体ヨーロッパ全体で人気が下降傾向と聞いた。日本できいた「王国」の話もどうやらだいぶバイアスがかかっていた様だ。そんな中に あって、わがハンガリーで形に拘らず自転車ファンが増えているのならば、それは大変喜ばしいことである。
  最近家族全員の自転車を買い揃えた。倉庫の巨大なオブジェと化していた我が愛車へは油を注し、しっかりメンテナンスした。家族でドナウ川河畔を風に乗って 走ること、その後おいしいビールを飲みながら風景談義で盛り上がること。今の自分のささやかな楽しみである。
 
 
 

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