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ハンガリーの息遣い −金子三勇士君のこと
城島 高明

 
 今売り出し中のピアニスト、金子三 勇士。手許にあるプロフィールには、1989年生まれとあるから、今年の誕生日でまだ弱冠の歳である。ミュージックを連想させる「みゅうじ」という名前か らはご両親の思い入れを感じさせるのだが、三勇士君の音楽才能は、早くからそれに十二分に応えるものだ。
 
 日本生まれの彼は、3歳の頃から誰 に習うでもなく自然にピアノを弾き始め、6歳で母の母国ハンガリーへ単身送り出された。厳しい環境に放り出されたというより、ピアノの才能がありそうだと 感じたご両親がハンガリーの有名なピアノ教師のレッスンを受けさせたところ、自らハンガリーに残って勉強すると決心したようだ。ヴァーツの祖父母の許から バルトーク音楽小学校へ通った。ハンガリーの年代別の全国コンクールを次々と制覇し、5年生で国立リスト音楽院の特別才能児教育ピアノ科への飛び級入学を 許された。一時期、腱鞘炎で何ヶ月もピアノが弾けなくなる危機に見舞われたが、その危機を克服してギリシャ、アメリカ・アリゾナ州のジュニア・コンクール で優勝。16歳で音楽院の全課程を修了した。活動の舞台を日本に移してからは、2007年のロン・ティボーコンクールでセミ・ファイナリスト、翌年の第3 回バルトーク国際コンクールではついに優勝と、ピアニストとしての経歴を着実に重ねてきた。

 日本からハンガリーへの音楽留学は 珍しいことではない。だが、音楽留学といっても、三勇士君の場合は非常に珍しいケースだ。日本で生まれながら、両親から離れて小学1年生から音楽院修了ま でを時間をハンガリーで過ごし、その後に日本の音楽高校・大学で演奏家としてのキャリアを積むというプロセスを辿っている。日本の中学・高校、音楽大学を 卒業してハンガリーにやってくるのとまったく逆のプロセスを踏んでいる。十代の最も感受性の豊かな時を、欧州の歴史と伝統に浸って音楽を学び、ハンガリー 語で教育を受けた三勇士君は、日本生まれのピアニストとしてはまったく異質な環境で育ったと言えるだろう。
 
 なによ りもまず、ハンガリーの日々の生活にあふれる音楽である。ブダペストに住んでいると気づかないが、バラトン湖の周辺、地方にまで足をのばすと、四季折々の 祭りに出くわす。目にする歌や踊りの中には、メロディーやリズムがバルトーク、コダーイの作品を想起させるものが多い。創作活動のベースをハンガリーとそ の周辺地域においたこの二人の作曲家は、民謡に対して科学的アプローチを試みた作曲家として知られている。彼らの音楽は、その成り立ちからしてハンガリー の民謡、ダンス、そして恐らくはハンガリー語の音韻とも密接に関わりあっている。音と映像が結びついた実体験は記憶に深く刻まれ、楽曲への深い共感と理解 に発展してゆくだろう。四季折々の祭りはテレビで放送されるだけではない。祭りに参加し、歌い踊る機会もあるだろう。身近な人が民謡を口ずさむのを耳にす ることもあるだろう。そうした日常の中で音楽を感じる経験の積み重ねが、一人ひとりの人間の中で、汲みつくせないほどの音楽の泉を形作る原動力となる。そ の泉は師事した先生方の教えと渾然一体となって、演奏家として自立して行くための確かな拠りどころとなる。
祭りだけではない。レストランへ行けば楽団の奏でるチャールダーシュが聞こえてくる。語義的には居酒屋風の音楽だが、緩急織り交ぜた民謡風の音楽である。 ピアノに向かえば、チャールダーシュはブラームスやリストの曲にも顔を出すし、チャイコフスキーにそのリズムを感じることもある。ハンガリーでの生活する ことがそれ自体が、知らず知らずのうちに、五感のすべてを通してクラシック音楽を実感することなのだ。
 
 もう一つは、三勇士君の「やる気」 を正面から受け止め支えてくれた周囲の温かい支援の輪の存在である。音楽家の祖父母に見守られたという恵まれた環境にあったとはいえ、年端もない6歳の少 年が親元を離れて、異国で生活し学ぶ厳しさは本人にしか分からない。音楽家は高い到達レベルを要求される厳しい競争の世界である。与えられた環境のメリッ トを最大限に生かして自らの糧とできるかの鍵は、才能は言わずもがな、強い意志と不断の努力にある。三勇士君は「両親や兄姉は他人のよう」と語ったことが ある。とにかく異国で独り立ちしなければならないという強い意志は、数々の逆境をはねのけ、いくつものハードルを越えて、鋼鉄のように鍛えられたと言うべ きだろう。そして、言葉の壁をクリアし、何事にも真摯な態度で取り組むうちに、周囲をいつの間にか味方につけてしまったに違いない。三勇士君の真っ直ぐな 姿勢を見て、手を差し伸べざるをえなくなるのだ。
 
 三勇士君のバルトークを聞いて考え をめぐらすうち、彼がハンガリーで成功できた鍵は、ここに記した2点にあるのではないかと考えるようになった。とくに、ハンガリー生活の中で体験し、知ら ず知らずのうちに自らの感性の中に刷り込まれたハンガリーのリズムは、日本で育ったピアニストには絶対に獲得できないものだ。彼の演奏からはハンガリーの 息遣いが感じられるのだ。
 
 2008年6月、東京でのリサイタ ルは満席で、同じ学校に在籍していると思われる多数の女子学生の姿も目立ったが、しかしよく見ると年齢層はかなり分散していた。彼が既に東京でも確実に ファンを得つつあることをうかがわせた。前半はフォーレ、ドビュッシー、シューマンと無難だが、内容的にはバラエティに富んだ組み合わせだった。そして、 後半はお得意のバルトーク、ウェイネル、コダーイ、リストと全てハンガリーの作曲家が並んだ。筆者は同年代の演奏家を折に触れて聞く機会はあるが、面白い のはやはりプログラムの後半だった。彼の音楽に対する真摯な姿勢は、最初の一音から聴衆をつかんでしまう。そして、筆者のように人生の一時期をハンガリー で過ごした者にとって、彼のバルトークやコダーイは、ハンガリーの空気がそのまま流れ出るように感覚に陥らせる。彼の演奏には日本で育ったピアニストには ないものを感じさせる何かがある(このコンサートの様子はインターネットを参照されたい。http://kawai-kmf.com/concert- info/2008/06.04/report/)。
 
 演奏家としての金子君の歩みはまだ 始まったばかり。可能性は無限。今後の展開は、ひとえに彼の誠実な努力と、ハンガリーで培った一生汲んでも汲みつくせないほどの音楽の泉を、どこまで我が 物にできるかにかかっている。他の誰のものでもなく、自分にしか表現できない音楽の世界をどこまでも追求してくれることを、陰ながら応援している。ハンガ リーに在住されている皆さんも、ぜひ機会を得て、三勇士君の音楽の世界に触れて頂きたい。
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.