Topに戻る
 

 
 
 
     
 
 
 
音の旅人― 関野直樹のこと
芦川 紀子

 
 関野直樹 がイシュテン・ヘジイ通りを登りつめ、ノルマファ近くの緑したたるホルバート家に居を構えたのは2001年夏のこと。同年、新人の登竜門としての飯塚新人 音楽コンクールで大賞を受賞し、その海外留学奨励金をベースに留学を決めていた。順調な滑り出しのように見えるが、ピアニストへの道程はいかにも長く厳し い。
 
 筆者と関野の出会いは、1995年 のこと。大学の西洋音楽史の履修生の一人であった。レポートについて質問に来た彼は、黒いセーターを着た細身の背の高い、「美しい」という印象の青年で あった。それから1年ほどして、ピアノのことで相談に乗って欲しいと電話がかかった。私は元々ピアノ専攻であったが、もはやピアノの教員ではない。その私 にピアノの相談である。どうしたら飛躍できるかと悩んでいた彼は、何か別の視点を求めていた。助言したり、マスター・クラスを紹介するうちに、大きな転機 が訪れた。
1998年、関野が大学院1年の時、モスクワのグネーシン音楽院のトロップ教授のレッスンを受ける機会があった。卒業演奏で弾いたリストの「ダンテを読ん で」を聴いてもらった。トロップ教授は聴き終わると静かに質問した。
 
 「君は今までどの様にピアノを勉強 してきましたか」
 
 彼は5歳からピアノを習っていたと はいえ、本格的にピアノの専門家を目指すような教育は受けてこなかった。練習嫌いで30分練習すればいい方だったという。しかし、発表会やオーディション を受ける時など、リハーサルでは失敗するのに、いったんステージに上がると一番目立つ演奏をしていたという。高校では理系のコースに所属していたが、2年 時に受けたコンクールがきっかけで、音楽に進みたいと思った。これでは遅い。しかし彼は日本大学の系列校にいたので、芸術学部に行くことになった。遅咲き のピアニストの第一歩がこうして始まった。独特のステージ感覚と弾きたい思いの伝わる演奏はできても、思い通りの音を出す術がない。そこを見抜いたのがト ロップ教授であった。「技」を伝授することは出来ると。
1999年3月下旬、だいぶ雪の消えたモスクワに飛んだ。買い物の仕方ひとつをとっても面倒な手間の必要な当時のロシア、毎日の練習、一日おきのレッス ン、5月の連休に戻ってきた彼は7キロも痩せていた。もともとの細身で長身の関野が一層高く見えた。様々なことを詰め込んで頑張ってきたことは分かった が、不消化を起こさせたようで、私は彼をモスクワに行かせたことへの責任を感じ始めていた。
 
 だが、修了試験でリストの「ソナタ ロ短調」を弾くことになった。これはチャンスだと思った。30分間休む間もなく弾き続けなければならないリストの大曲。人間の体と感覚と魂が、ピアノとい う楽器を通して何をなし得るか、それを追い求めたのがフランツ・リストのピアノ作品であり、ブレンデルによればその最高傑作が「ソナタ ロ短調」である。
この曲は1853年2月に完成したが、初演は1857年、リストの高弟ハンス・フォン・ビューローによって行われた。その瞬間から音楽界は二つに割れた。 もしこの曲が幻想曲として発表されていたならば、議論にはならなかっただろう。それほどに伝統的なソナタとは異なっている。しかしソナタ形式を「主題の提 示と展開、再現からなる形式」とするならば、三つの主題の提示と変奏、中間に緩やかな美しい楽章を挟んだ大きな三部分構造による単一楽章のソナタといえ る。ベートーヴェンの「第九」の第四楽章と同じ意味で変奏されたソナタ形式である。実際、作曲に際してリストは、ベートーヴェンから大きな影響を受けた。
 
 技術的にも、内容的にも、精神的に も演奏困難な大曲を正しく確かなものに出来れば、彼の問題が解決する。この作品を指導してもらうなら、友人のリスト音楽院のドラフィ教授以外にはいない。 彼はピアノを弾く身体のあり方を真に他人に伝えることの出来る優れた教師である。関野はその夏ウィーンに滞在し、毎週ブダペストに通ってこの大曲と向き 合った。12月、修了演奏を終えた彼のために、私は東京オペラシティのリサイタルホールで演奏会を企画した。これがその後10年にわたるピアニストとして の旅を共に歩むきっかけであった。
 
 2000年夏にはブダペストに滞在 し、その秋のワイマールのリスト・コンクールに備えた。彼の地のリスト協会主催で行われたリスト・ハウスでの演奏会を皮切りに、日本とハンガリーはもとよ り、ドイツ、オーストリア、合衆国、モンテネグロ他で演奏活動が続いた。2004年は特別な年になった。3月の紀尾井ホールでの3回目の自主リサイタル は、音楽的にも技術的にも彼の集大成であり、大きな評価を得た。続く5月のリスト音楽院大ホールでのソロリサイタルは、彼にとって演奏のターニングポイン トになった。6月には由緒ある南ドイツのオットボイレンの修道院で圧倒的な演奏を聴かせた。翌2005年3月には、リスト生誕の地ライディングの演奏会に 招かれた。オーケストラの響きがすると絶賛されたリストの「死の舞踏」の後に、シューベルト=リストの「セレナーデ」を弾いた。オーストリア人にとって心 の故郷ともいうべき曲。人々は息を潜め、そして圧倒的な拍手が鳴りやまなかった。
日本での自主リサイタルはすでに7回を数え、その演奏の評価が定着してきた。2008年11月には、デビューCD「リストの世界」をリリースし、レコード 芸術2月号誌上で「特選盤」に選ばれた。去る2月28日、ドイツのメミンゲンのKunsthalle で「関野直樹、ハイドン・ベートーヴェン・リストを弾く」と題して、3曲のソナタを演奏した。南ドイツ新聞に取り上げられ、本年11月と来年5月、11年 のリスト年にも、すでにドイツでの演奏会が決まっている。08年12月、東京と福岡で演奏したリスト編曲の2台ピアノ版ベートーヴェンの交響曲第9番{合 唱}はケマル・ゲキチと火花散る共演だった。今後の海外展開が期待できる。ロンドン、アメリカでの演奏も射程に入ってきた。
 
 練習嫌いの少年はブダペストの素晴 らしい環境の中で練習の虫となり、自己改善に血の滲むような努力を重ね、演奏活動を行なってきた。師をして「ステージで特別な演奏効果をもたらすことの出 来る演奏家は、100人に2〜3人しかいない。直樹はそういう種類のピアニストだ」と言わしめた。世界に評価される演奏を培うことの出来たブダペストでの 8年の生活に別れを告げ、彼は今年日本に活動拠点を移す。モスクワを一緒に訪ねてから10年、より一層の飛躍を目指して、共に新たな旅に出かけることにし よう。彼のライフワーク「ソナタロ短調」と共に。
 
 9月にはブダペストでの「さよなら コンサート」を予定している。
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.